る人間にとって、事実、それらは完全に絶縁された別の世界のものだった。
「これ以上、待ってやることはない」
そこだけ深い水の色を見せている青々とした湖心に、ひとの乗っていない空のボートが漂っているのを見たとき、久美子は「おや」と思ったが、モヤイが解けてボートがひとりで流れだしたのかも知れず、おどろくようなことでもなかった。
湖水の対岸に、貸バンガローや売店や管理人の事務所を寄せ集めたキャンプ村がある。ボートで釣りに出たついでに、用|達《た》しでもしているのだろう。そのうちに、ほかのボートで漕ぎ戻るか、湖水の岸の道を歩いてくるかするのだろうが、久美子には生存を廃棄するというさし迫った仕事があるので、あてのない大池の帰りを待っていられない。今朝のような失敗をくりかえさないように、どこか静かなところで、じっくりと考えてみる必要があるのだ。
久美子は玄関の脇窓からさしこむ陽の光をながめていたが、とても昼すぎまで服が乾くのを待っていられない。手ばやく煖炉を焚しつけ、浴槽に放りこんでおいた濡れものを椅子の背に掛けならべると、今夜、身を沈めるはずの自殺の場を見ておこうと思って、二階の大池の寝室へ
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