つきで額をにらみあげ、
「ふむ、どうしたんだろう。妙だな」
 と独り言をいっていたが、なにか思いあたったようにうなずいて、
「大池さんは間違いなんかなさらないが、千慮の一矢ってこともあるもんだから……」
 そういうと、自転車に乗って、湖の岸の道を、対岸のボート置場のあるほうへ飛ぶように走って行った。

 どこかで小鳥の翔《かけり》の音がする。
 壁煖炉の火格子の上に、冷えきった昨日の灰がうず高くなっている。湖畔の林の中にあるロッジの広間は、深い眠りについているように森閑としずまりかえり、煖炉棚の置時計の秒を刻む音だけが、ひびきのいい腰板《パネル》にぶつかっては、神経的に耳もとに跳ねかえってくる。
 宇野久美子は火の気のない煖炉の前の揺椅子に掛け、行きずりに一夜の宿をしてもらった礼をいってここを出ようと、大池の帰るのを待っていたが、そのうちに、そんなこともどうでもいいような気がしてきた。
 天井の太い梁も、隅棚の和蘭《オランダ》の人形も、置時計も、花瓶も、木の間ごしにチラチラとうごく水明りも、眼にうつるものはすべて、もうなんの情緒もひき起さない。できれば今日中にでも自殺しようと決意してい
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