り捨てたプリムスが豊橋のガレージにある。それでロッジへ乗りつける。煖炉をたいて煙突から煙をだす。石倉はそれを見るなり吉田へ行く。その日、湖水の近くにいなかったというアリバイをつくるために、知合いの家に泊って、翌朝、早く帰ってくる。私は夜明け前、ボートで対岸へ行って、バンガローに隠れている。石倉がいいころにハイヤーを廻してよこす。修善寺へ抜けて、夕方の汽車で名古屋に帰る……」
「バンガローに行きたいといったのに、行かせなかったのは、そういう事情があったからなのね」
「お察しのとおり……夕食後、君は散歩に出て、一時間ほどして帰ってきた……十一時頃、私が二階から降りると、君は病的な鼾をかいて、長椅子で昏睡していた。そのときの印象は、もう助かりそうにもないように見えた……枕元のサイド・テーブルに下部《しもべ》鉱泉の瓶とコップが載っている……私がロッジに来る前に、鉱泉に催眠剤を仕込んでおいた奴がある。湖水の分れ道で君を拾ったことは、誰も知らないはずだから、目当ては、当然、私だったのだと思うほかはない……泊ってくれるだけでいいなどと、うまいことをいってひっぱりだして、私を殺して湖水に沈めるつもりだったんだ」
「その話は妙だわね。あたしはこうして生きているわ」
「ブロムラール系の催眠剤十五グラムは、健全な人間には致死量にならないが、特異質や身体異常者……たとえば、妊婦とか、心臓、腎臓の疾患者は、その量で簡単に死んでしまうというんだ。私のような冠疾《かんしつ》患者があの鉱泉を飲んだら、当然、死んでいたろう」
「鉱泉を分析してみたわけでもないでしょう。そこまで考えるのは、すこし敏感すぎるようね」
「前例がある……兄の前の細君の琴子と、トンネル会社をひきうけていた水上という男が、催眠剤の誤用で死んでいる。琴子は妊娠中で、水上は腎臓をやられていた。君代ぐらい催眠剤を上手に応用《アダプト》するやつもないもんだ。感服するほかはないよ」
「いやな話だわ。あの奥さん、そんなひとなの」
「そんな女なんだ……こんどの破産詐欺も隠し資産も、みんなあの女が手がけたことだ……琴子の場合はこうだった。琴子は胸の悪いところへ妊娠して、不眠で苦しんでいた。そのとき女子薬専を中退したばかりの君代が、派出看護婦で来ていた。琴子は君代に催眠剤をくれというが、やらない。そこが読みの深いところで、気の弱い兄が情《じょう》
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