しの言ったこと、おわかりにならなかったかしら」
「よくわかっていますが、ちょっと……」
隆は広間に張りだした廊下のほうへ、ほのかな目づかいをしてから、上着のポケットからなにかだして、だまって夜卓の上に置いた。
久美子が湖水に身を沈める前に飲むことにしていた睡眠剤の小さなアンチモニーの容器だった。
「これが、どこに?」
「煖炉のそば……薪箱の中に」
ジャンパーの胸のかくしに入れておいた。椅子の背に掛けて乾かしているうちに、ころげだしたのらしい。
「ブロミディア……十錠が致死量とは、すごい催眠剤ですね」
死んだように動かない嫌味な眼を除けば、どこといって一点、特色のない平凡なサラリーマンのタイプだ。たいして頭のいいほうでもないらしいが、この青年は、久美子がなにをしようとしているか、もう察しているらしい。
「これを他人に拾われるまで、気がつかずにいるなんて……」
久美子は心の中で呟きながら、強く唇を噛んだ。
気の弛《ゆる》みから、ものを落したり、まちがいをしたりするような経験は、久美子にはまだなかった。自分の生存を断絶させようというのは、親譲りの癌腫というぬきさしのならない宿命にたいする崇高なレジスタンスなんだと自分では信じている。久美子のほか、たぶん神も知らない意想の中の秘密を、こんな愚にもつかない男に隙見されたかと思うと、口惜しくてひとりでに身体がふるえだす。とめようと思うと汗がでた。
「すごいというなら、阿片丁幾《ローダノム》なんてのがあるわ。これは、たいしたもんじゃないのよ……どうも、ありがとう」
扉口から離れたので、階下へ行くのかと思ったら、そうではなく、足音を盗むようにしながら、ぬうっと久美子のそばに寄ってきた。久美子は気圧《けお》されてひと足、後に退った。
「警察の連中は……」
隆がささやくようにいった。
「あなたが父の後を追うようなことをなさるかと……いやな言葉だけど、後追《あとお》い心中をするかと、そればかりを心配しているんです」
久美子は露骨に皮肉な調子で浴びせかけた。
「すると、これを返してくださるのは、どういうわけ?」
「いまのところ、あなたは自殺干与容疑の段階にいるんですが、父の死体が揚らないかぎり、逮捕することも身柄を拘束することもできないけれども、こんなものが見つかると、あなたはすぐ留置されます。容疑者の自殺は証拠湮滅の企図
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