じゃ……」
 石倉が林の中の道に姿を消すと、間もなく機外船のモーターがかかり、エンジンの音が岸から遠退いて湖心のほうへ進んで行った。
「こんなことも、あるものなんだ」
 湖心まで漕ぎだし、自殺しようと思っていたそのボートに乗って出て身投げをした男がいる。こういう偶然も、この世には、あればあるものなのだろう。
 そのほうはさらりと思い捨てたが、なんとも納得のいかないことがある。昨日、大池が鍵を持っている管理人が吉田へ行っているから、バンガローには泊れないだろうといった。聞くと、バンガローには鍵がかからなくて、誰でも自由に入れるようになっているという。なんのことだかよくわからないが、ふとした疑問が久美子の心に淀み残った。

 クラクションの音がした。
 玄関の脇窓からのぞくと、昨日、大池と二人でやってきた湖水沿いの道を黒い大型のセダンが走ってくるのが見えた。
「やってきた」
 芝生の間の砂利道で車がとまると、お揃いのように紺サージの背広を着た男が二人と官服の警官が一人、左右のドアをあけ、職業的とでもいうような馴れきった身振りでサッと車から降りた。
 そのあとから、上役らしい四十二、三の口髯のある男と、妙にとりすました、見るからに秀才型の三十二、三歳の男が、ゆっくりと出てきた。
 口髯のあるほうが車のそばで足をとめて巻煙草に火をつけると、それが合図ででもあるように、私服と警官が分れ分れになり、一人はガレージの横手についてロッジの裏へ、一人は林の中の道を湖畔のほうへ走って行った。
 一人だけ残った年配の刑事は、ロッジの二階の窓を見あげていたが、秀才型のそばへ行って、なにかささやいた。
 秀才型は聞くでもなく聞かぬでもなく、曖昧な表情で、煙草の煙を吹きあげていたが、クルリと向きをかえると、巻煙草を唇の端にぶらさげたまま、のろのろと玄関のほうへ歩いて来た。
「おお、いやだ」
 警察の連中がロッジへ入って来るのを見るなり、久美子は突然羞恥の念に襲われ、濡れものを掛け並べた椅子のほうへ走って行った。

 スラックスもジャンパーも、火気のあたらない裏側がまだじっとりと湿っていてどうしようもないが、パンティやブラジャーのような、みっともないものだけでもどこかへ隠したいと思ってうろたえたわけだったが、作業が完了しないうちに、三人の官憲はロッジに入ってきて、ドアのそばに立って久美子のするこ
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