たが、そのうちにささやくような声でこたえた。
「大池さんは釣りに出られたわけではなかったんです。つまり、その……」
「自殺?」
「はあ、そういうことだったらしいです。この湖で投身自殺するという遺書が、昨夜、おそく東京の御本宅へ届いたそうで、そのことはさきほどもわたしどもへお電話がありました……昨夜から今朝にかけて、自殺を思いとまるように説得してくれと、いくどかお電話くだすったそうですが、生憎、昨日はずっと吉田に居りましたので、なにもかも後の祭りで……御本宅の奥さまとご子息さまが七時三十五分の浜松行にお乗りになったそうですから、十時半ごろにはここへお着きになるでしょう……どうか、そのおつもりで……」
「お心づかい、ありがとう」
「わたしは石倉と申しますが、大池さんにはいろいろとお世話になりましたもので……むこうの管理人事務所に居りますから、ご用がありましたら、声をかけてください。私の出来ることでしたら……」
そういうと、お辞儀をして、あたふたと帰りかけた。
「石倉さん……」
はあ、といって石倉が戻ってきた。
「あなたバンガローの鍵を預っていらっしゃるんだって?」
「鍵?」
「どれでもいいから、ひとつ開けておいてくださらないかしら」
「バンガローは三十ほどありますが、鍵のかかるのは一つもありません。空いてさえいれば、誰でも自由に入れるようになっているので……それで、どうなさろうというんですか」
「ゴタゴタするのはかなわないから、そっちへ移ろうと思うの」
石倉は怒った犬のような眼つきになった。
「気持はわかるが、そうなさらないほうが、お為でしょう」
「お為って、なんのこと?」
「御本宅でも、警察でも、あなたがここにいられることは知っているんですから」
「どうしてなの」
「私がいいました。隠してはおけないことだから……バンガローへ移ってみたって、ゴタゴタするのはおなじでしょう。遠くへ逃げるというのなら、話はべつですが」
「なにか意見がありそうね。伺うわ……あたしにどうしろというんです」
「あなたは、昨夜から、ずうっと大池さんといっしょにいらした……奥さまやご子息さまも、あなたの話を聞きたいところだろう……あなたにしても、それくらいのことをするのが、世間一般の義務ってもんじゃないですか……これから、深いところを錨繩でやってみますが、夕方、手仕舞をしたらロッジへ伺います。
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