トその部屋を借りることにした。為替の下落もよもやここまでは追いつくまい。とすると当分移転のめんどうだけははぶけるからである。
 寝台に腰をおろしてなすこともなく腕をこまぬいでいると、扉を叩いて、びっくりした子供のような一種不可解な顔をした男がはいってきた。髪は遠慮なく薄くなりかけているが、顔のほうは二十一、二歳でハタと発達をとめたものとみえる。
 自分の部屋を訪れるために無理に上衣の釦《ボタン》をかけてきたのだろう。その釦を飛ばすまいとして一生懸命に下っ腹を凹ましているふうだった。通例の挨拶の後、舌ったらずな口調で「わたしはこの階下に住んでいるものです。お差支えなかったら、おちかづきのしるしに晩餐をさしあげたい」といい「なにしろ今日は、降誕祭《クリスマス》前夜のことだから、ひとりで夜食《レウェイヨン》をなさるのは、さぞ味気《あじけ》ないだろう。それに、妻も非常に希望しているから」という意味のことをきわめてぼんやりとつけくわえた。
 一、夫婦の部屋は貧困なりにやはり家庭だとうなずかせる和《なご》やかな雰囲気があった。その中にたいへん小柄な女が立っていた。これが妻君だった。前髪を眉の上で切
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