、一世紀にたった一回しかないということを証明しているのだ。なにかしらの法則に支配されていて、けっして出鱈目なものでないことがわかるだろう。それどころか研究してみると、目の出かたはじつは秩序立った法則があることが判然する。ただしこの法則を発見するには、五十五万以上の組合せと同じ数だけの順列と取っ組まなくてはならん……五十万! どんな困難な仕事か君には想像も出来んだろう。おれは五年でやってのけるつもりでいたが、休みなしにやって十年もかかってしまった。そしておれはとうとうそれを発見したんだ。もう九分九厘というところまで行っている」そういうとふところから黒い手帳をとり出して頭の上でふりまわしながら「その公式はこの中にある。おれにとってルウレットはもはや僥倖を期待するあさはかな賭博ではない。おれにとってそれは組合せと順列の簡単な遊戯にすぎない。百万|法《フラン》を勝つのはわずか半日の暇つぶしですむのだ……どうだ無限の富を握るといったわけがわかったろう。……賭博の研究に十年も寝る目も寝なかったといったらひとは笑うだろうが、これは卑劣な利慾心だけではじめた仕事じゃない。じっさいのところ選り好みしようにもほかにどんな金儲けの能力も持ってなかったからなんだ……おれはこれでも絵かきだったんだぜ。十七の年から十五年の間、不退転《ふたいてん》の精進《しょうじん》をした。そして十年前に巴里《パリー》へやってきた。胸をおどらせてルゥヴル博物館へ飛んで行った。無数の傑作をながめておれは茫然自失した。やがて自分にいいきかせたね。これだけ優れた絵がたくさんあるのに、まだ自分の出場があると思うか……おれはその日から絵筆を折った。才能もないくせに絵の勉強などをはじめ、ろくに楽しい思いもせずに空費した青春のことを考えると、五十になってようやく十万円貯めたなんていうしみったれた儲けかたでは我慢がならなかったんだ」
 賭博の絶対的な法則などはありえない。虚在の対象を追求して十年の歳月を空費した愚かな執着のすがたをあわれ深くながめた。
 一、次の日から部屋に籠って勉強をはじめ、一週間ほど多忙な日を送っていたので、どちらの部屋もおとずれる機会がなかった。仕事がひと区切りついたので、その夕方、夫婦のいる四階へおりて行くと、夫婦は長椅子に並んで掛けていたが、夫のほうは放心したような中心のない顔をし、妻君のほうはせっかくの魅力のある眼を赤く泣き腫していた。
 聞いてみると、二人はその朝不幸な手紙を受取ったのである。布哇《ハワイ》のれいの後援者《パトロン》の漁場が大海嘯《おおつなみ》にやられ、一夜にして彼自身も無一文になってしまった。不本意ながら、援助が出来なくなったといってきた。寝耳に水とは真にこのことだ。ちょうど半年分の送金が届く定例の月で、それを待ちかねていたくらいだから手元には千|法《フラン》とちょっとしか残っていない。どんなに倹約したって二タ月ともちはしない。するとそのあとはどうなるだろう。
「夫は歌をうたうほかなにひとつ出来ない能なしだし、あたしはミシンもタイプライターもだめなんです。パパがいやしい仕事だといってやらしてくれなかったのよ。アメリカならどうにかなるでしょうが、こんなせち辛い巴里じゃ日本人の働く口なんか、あるわけはないんだし、友達はみんなじぶんのことだけで精一杯で、他人のことなんかにかまっていられない、貧乏なひとたちばかりなんだから、いずれは餓死するか自殺するか、あたしたちの運命はもうきまったようなもんですわ」
 いかにもしんみりと口説《くど》くと、同情を強要するような一種雅致のある泣きかたをしてみせた。つまるところは助けてくれというわけなのであろうが、こちらにはそんな気がない。聞くだけ聞いてひき退ってきた。
 一、それからまた三日ほどしてから、なにかの用事で夫婦のところへ行くと、発育不良の子供面が待ちかまえてでもいたようにいそいそと椅子から立ってきた。
「喜んでください。ぼくたちは餓死しないでもすみそうですよ。いやひょっとすると大金持になるかも知れないんです。まアこれを読んでごらんなさい」
 いわば、喜色満面といった風情で、前日の夕刊をさしつけてよこした。なんにしても結構な話にちがいないから、それはよかったといいながら、指《さ》されたところを読んでみると「モンテカルロの大勝」という標題《タイトル》の下に、ウィンナムという英国の婦人が一夜のうちに二十万|法《フラン》勝ちあげ、モンテ・カルロ海浜倶楽部《ビーチ・クラブ》がその婦人に祝品を贈呈したとか贈呈するところだとか、そういった埓もない記事が載っていた。
 夫のほうは悪いグロッグでも飲みすぎたようなしどろもどろの口調で「どうです。凄いじゃありませんか。一と晩に二十万法! ともかく最近モンテ・カルロはつづけざま
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