にやられているんですよ。先週も三人組の独逸人に百万|法《フラン》近くやられて、三日の期限付でモナコ公国にモラトリアムが出たばかりのところなんです。それでぼくはちょっとしたシステムを知っているから、最後の千|法《フラン》を賭金《ミーズ》にして一と旗あげてみるつもりなんです。万一、負けたって自殺することにかわりはありやしない。次第によっては、まるっきり運命を変えることが出来るんだから」
 額際まで赤くなって熱狂しながら、机の上に置いてあった、れいの緑色の賭博場《カジノ》の週報、全紙数字ばかり羅列したモンテ・カルロ新聞 La Revue de Monte−Carlo の最初の頁を指さし「一昨日、モンテ・カルロの No. 2 の卓で朝の八時から夜の十二時までの間に、こんな順序で数字《ニュメロ》が出たんです。家内にこれを読ませて朝からシステムの実験をしているんですが、場で出た目のとおりなんだからモンテ・カルロのカジノでやっているとかわりはしないんです。だいぶいい成績ですよ。五|法《フラン》賭けで小さくやっているんですが、あらかた千法以上勝った計算になっているんです。わかりますか。五法でやって千法! 百法でやっていたら二万法、もし千法でやっていたら二十万勝っている理窟なんです。いま実験してお目にかけますから見ていてください。さアいまのつづきをやろう」と細君にいうと勿体ぶったようすで机の前に坐りなおした。
 細君は心得た顔でモンテ・カルロ新聞をとりあげると、滑稽とも悲惨ともいいようのない真面目くさったようすで斜《しゃ》にかまえ、賭博場《カジノ》の|玉廻し《クルウビエ》そっくりの声色で「|みなさん、張り方をねがいましょう《フェート・ウォ・ジュウ・メッシュウ》」のアノンセし、無智と卑しさを底の底までさらけだしたギスばった調子で、「三十五《トラント・サン》……黒《ノアール》……奇数《アンペア》……後目《パツス》……」などと一週間も前に出たモンテ・カルロのルウレットの出目を読みあげていたが、頃合のところで方式どおりに「|張り方それまで《リャン・ヌ・ヴァ・ブリユ》」と声をかけた。
 夫のほうは眼玉を釣りあげてギョロギョロしていたが、首だけこちらへねじむけて「ごらんなさい。赤《ルージュ》が十回もつづけて出ている。こんなことってあるもんじゃない。こんどは黒《ノアール》に崩れるにきまっています」と説明すると「黒へ五百|法《フラン》!」と叫び、賭けたしるしにノートへ N−500 と書きつけた。
 赤が出た。
「赤が出たらどこまでも赤に乗って行く約束だったじゃありませんか。勝手にシステムを変えるからいけないんです」と細君がやりこめた。夫のほうは見るもみじめに狼狽して「システムといったって博奕のことなんだから百パーセントに正確なもんじゃない。これは負ける回数をうんと少くして出来るだけ勝つ回数を多くしてその差で自然に儲けるようになっているシステムなんだから、一回や二回負けたってたいしたことはないさ。もっともいまは勝手にシステムを変えたからいけなかった。きめたシステム通り赤へ乗ってゆく。こんどは大丈夫……赤へ五百|法《フラン》」
 黒が出た。自分は見かねて、六階にいる男もじつはルウレットの研究をしているのだが、十年もやってようやくものになりかけているそうだという話をした。それほど研究してもかならず勝てるとはきまっていぬというのに、こんなにあやふやな思いつきでルウレットにたちむかうなんて愚劣なことはよしたがよかろうとたしなめたつもりだったが、二人にはこれがまるで通じぬらしく、たちまちはげしい渇望の色をあらわしてぜひそいつを教えてもらうことにしようといいだした。自分は「十年もかかって研究したものをそうかんたんに教えてくれるはずはなかろう」と苦《にが》い調子でいうと、夫は「ええ、ですからただ教えてもらうんじゃない。ぼくのシステムをむこうへ公開するんだからつまり交換教授です。これなら先生もまさかいやとはいわないでしょう」
 そして夕食に招くという名目で、うまくつれだしてほしいとたのんだ。自分は事を好むほど若くはないつもりだが夫婦の厚顔《あつかま》しさがひどく癇にさわり、無理にも六階の住人を引っぱってきて、こっぴどくとっちめてやりたくなった。
 一、彼は長椅子に寝ころがって煙草をふかしていた。部屋の紙屑は残らず消え、意外に清潔なようすになっていた。机の上にも埃がたまっていてしばらくそこに倚らなかったことを示していた。
 彼は元気よくはね起きて「おれが逢いたいと思ってるとかならず貴様がのこのこやってくる。おれと貴様の間には感応し合う電気のようなものがあるのかも知れぬな」といった。「じつはお前を晩飯に誘おうと思ってやってきたのだ。もっとも二人きりじゃない四階の夫婦もまじるのだが」
前へ 次へ
全11ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング