案の定彼はうんとはいわなかった。女は苦手だとか、おれはもう社交の習慣を忘れてしまったとか、いろいろな口実を設けて頑強に反抗した。自分はそこで「バタを載っけた灸牛肉《シャトオブリアン》と鰻と、生牡蠣と鶏と……これだけのご馳走がお前のために用意してあるのだ」といってそれらの料理について精細な描写をした。
彼は頭を抱えて呻いていたが「貴様はひとの弱点をつくようなことをする。貴様の策略にのるのは忌々しくてたまらんが、抵抗は出来ん。よし行く」といってたちあがった。
彼の貪食ぶりは言語に絶した壮観で、挑みかかるようにありったけのものを喰いつくすと、喉を鳴らして遠慮なく※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]気《おくび》をした。食事がすむとすぐ、亭主のほうが、自分は最近すばらしいルウレットのシステムを発見したが、座興までにここで実験して見る。お望みなら公開してもいいといって素早く机の上にノートをひろげた。彼はたちまち嫌悪の色をあらわし、険しい眼つきでこちらへふりかえった。彼は何もかも察したらしかったが、それについては一言もいわなかった。
例の通り細君が|玉廻し《クルウビエ》になり亭主が賭《は》り方へまわった。この日ははじめからだいぶ調子がよくて二十分ほどのあいだにかなりの額を勝ちつづけた。彼は頬杖をついて黙然とながめていたが、やがてとつぜん「たわけたことを! そんなのがシステムであってたまるものか」と叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]した。子供面はむきになってノートをふりまわしながら「現にこのの通り[#「このの通り」はママ]勝っているじゃないか」と叫んだ。彼は「勝っていることも事実だが、いずれ負けてしまうのも事実だ。お前の様な馬鹿野郎を納得させるには理窟では駄目なのだナ。いま実例を示してやる。おれが読むからやってみろ」といってモンテ・カルロ新聞をとりあげた。珍妙なことがはじまった。黒へ賭《は》れば赤が出る。奇数へ賭れば偶数が出る。面白いほどいちいち反対の目が出た。それは、涯しない鼬《いたち》ごっこだった。亭主は躍起となって賭《は》りつづけたが、間もなく仮想の全財産を失ってしおしおと賭博台を離れた。
「どうだ。おれは目を三つおきに読んだだけだが、こんなことで屁古《へこ》たれるようなものはシステムでもなんでもありはしないのだ。お前の馬鹿をここでわからしてもらったことを有難くおもえ、賭博場で自分の馬鹿がわかったと来ちゃ首を縊らなけりゃならんのだ。こんなものがシステムだなんて出かけて行ったら、モナコ三界で路頭に迷うぞ、及びもつかぬことを考えぬがいい」それ自身貧困である欧羅巴では、なんの生活力ももたぬ孤立無援のこの東洋人夫婦にとって、このような場合窮死は空想ではなく、極めてあり得べき事実なのである。この能なしの夫婦にとって賭博だけが最後の希望だった。彼等は悲運《ミゼール》から救ってくれるはずだった唯一の希望があとかたもなくケシ飛んでしまった。この打撃はどんなにひどいものだったか夫婦は虚脱したように椅子の中へめりこんでしまった。その絶望のさまはみるも無残なくらいだった。
彼はまじまじと夫婦のようすをながめていたが懐中から黒い表紙の手帳をとりだすと、数字のギッシリとつまった頁《ページ》をペラペラとはぐって見せながら「システムなんてものは無限大の数字を克服してはじめて獲得出来るようなものなんだ。おれは十年やった。しかしそのおれでさえまだいっこうにわからん。君等はおれがかならず勝つと思っているかね? そんなことはあり得ないのだ。ルウレットというのはどれほどむずかしいものかその証拠をみせてやろう」そういうと妻君に「モンテ・カルロ新聞のどこからでもいいから、勝手に読んで見たまえ」といいつけた。
彼は妻君が読みあげるのを頬杖をついてきていたが、やがて無造作に「黒へ最高賭額《マキシマム》(一万二千|法《フラン》)!」といった。
黒が出た。また黒へ賭けた。黒が出た。次は赤へ賭けた。赤が出た。たった三回で(資本の一万二千法を差引いて)五万法も勝ってしまった。彼は無頓着なようすで黒へ二度、赤へ二度、黒へ一度、赤へ三度……それからまた前へ戻って、黒へ二度、赤へ二度というぐあいに最高額を賭《は》りつづけていた。
ふしぎな現象がおきていた。われわれは遅まき乍ら、ルウレットがいま黒と赤と交互に(黒2回―赤2回―黒1回―赤3回)(2―2―1―3)という秩序立ったアッパリションを飽くことなく繰り返していることを発見した。
この単純極まる反覆を十回もつづけた後、ルウレットは別な配列へ移っていた。今度は(赤1回―黒1回―赤1回―黒2回)……また始めへ戻って(1―1―1―2)という反覆運動だった。彼は機械的にそれに追従していたが、一時間ののち、ただの一度の失
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