敗もなしに八十万法勝ちあげてしまった。これは仮想の賭博にすぎぬが、われわれはうず高い金貨の山と、厖大な銀行券の束をありありと机の上にながめる思いだった。
夫婦は酔ったような赤い顔をし、はげしい渇望の色をあらわしながら荒い息づかいをしていたが、細君がだしぬけに床に土下座をして彼の手をとった。
「助けて、ください」哀切きわまる眼つきで彼を見あげながら「どうぞ……そのシステム……」といった。
彼は守銭奴がその宝を隠すときのようにあわてふためいて手帳を内懐へおしこむと、悲哀とも憤怒ともつかぬ調子で「賭博に、システムはない」と叫んだ。そして荒々しく戸をあけて出ていった。
一、それから二日ばかりののち、自分はまた夫婦の部屋をおとずれた。自分が入ってゆくと夫は急に夕刊を取りあげて、いまタルジュ事件について論じていたところだったといった。夫婦はたった二日のうちにひどく憔悴してしまい、眼のまわりに黒い輪のようなものが出来ていた。眼の中には刺すような光があらわれ、声には陰惨な調子がまじり、誇張していえば人相が変ってしまったといってもいいほどだった。
タルジュ事件というのは、妻君が莨※[#「くさかんむり/宕」、第3水準1−91−3]《ろうとう》の煎汁を飲ませて夫を殺したつい最近の事件であった。病中の躁暴《そうぼう》状態が異様だったことを女中が近所にいいふらしたので発覚した。
かなり夜が更《ふ》けてから部屋へ帰ろうと、たちあがるとピアノの上に一冊の見なれぬ本が載っていた。なに気なく手にとって見ると、「摘要毒物学」R. A. Witthaus, Manual of Toxicology という標題がついている。奇異に感じて思わず夫婦のほうへふりかえると、妻君が、私は以前探偵小説を書いたことがある。さいわい「探偵《ヂテクチーヴ》」という雑誌の編輯者と懇意であるから、またそれをはじめて生活の足しにするつもりだ。そのためにいま速成の勉強をしているのだという意味のことを沈着な口調で説明した。
一、帰るとすぐ寝床へはいったが、夫婦が殺人を企てているのではなかろうかという疑念のためにどうしても眠りにつけぬのであった。強いて頭を転じようとしたが、どうしても、どういう動機によって疑念をおこすにいたったか考えて見ることにした。
第一は夫婦の部屋にはいって行ったときの印象である。自分が入って行くと、いまタルジュ事件について話していたところだったといった。しかしその時の実感によれば、明らかにそれ以外の非常に険悪ななにか犯罪に類したことを話しあっていたのではなかったかというような気がした。
第二はタルジュ事件に対する夫婦の興味のもちかたである。普通にわれわれがもつ社会的な興味の度を超えた異常な熱心をあらわし、しかも話題の中心は毒殺とかというところにあった。第三は毒物学の本である。自分がこれをとりあげたとき、夫の眼にはあきらかに狼狽の色がうかんだ。しかるに妻君はそれがこの場所にあるゆえんを沈着に釈義した。それはあまりに沈着すぎるためにかえって相手に疑念を抱かせるような種類の沈着で、妻君の意志を裏切ってその説明が虚偽であることを明白に申し立てていた。するとあの毒物学の本はどういう目的のため購求されたのであろう? 人間の頭の発展の仕方に幾通りも特別なスタイルがあるものではない。悲境を打開する方法を勤勉に求めずに賭博に求めるような困憊《こんぱい》した性格においては、渇望するものを手に入れる方法として容易に殺人を思いつくであろう。
さてここまで考え来たったところで、また新たな想念に煩わされることになった。それは一種異様なもので、われながら不快を感じたのであるが、そのアイデアとは、殺人を遂行するまでの経過を冷静に観察して見たいというそれであった。いま一人の人間を殺そうとしてある人間が計画をたてている。それは細心に考案され、徐々に対象の命に迫ってゆく。さまざまな曲折を経たのち、それは成功する(或いは失敗する)。いま自分の眼前で謀殺の全過程と全段階が展開されようとしている。人間が徐々に殺されてゆく経過をこの眼で見るなどは、千載一遇の機会であらねばならぬ。しかも殺人と被殺人者の両方の面からこれをながめ、「運命」の操《あやつ》り手を楽屋から見物し、運命のやり方というものを仔細に観察することが出来る。しかし自分は悖徳者《はいとくしゃ》ではないから、殺人に加担するのではない。あくまでも観察にとどめるのは無論である。殺人者に対していかなる誘導もいかなる示唆も与えず被殺人者にたいしてはいかなる同情も憐憫も感じない冷酷な心を用意しておかねばならぬ。殺人者を嫌悪せず、被殺人者を嘲笑せぬ公平な心が必要である。自分は出来るだけ冷静に観察するつもりであるが、かならずしも殺人の成功を望んでいるので
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