はない、結果はどうあろうと教訓になる。
よりよく観察するためには両者にもっと接近しなくてはならぬ。彼のほうはいいとしても、夫婦のほうへ毎日出掛けていく口実がない。しかしこんなぐあいには出来る。不便だという名目で夕食の世話をして貰う。相当以上の費用を払ったら承諾するにちがいない。
さいわい自分の放心ぶりは彼等に愚直凡庸な人物であるかのような印象を与えているから、彼等に気兼ねなく振舞わせることが出来るであろうと思う。
観念内の遊戯として弄《もてあそ》ぶぶんには一向無難であるが、実行に移した場合のことをかんがえると倫理《りんり》感情は一種不快な圧迫を受ける。殺人にたいして、いかなる積極的な意味においても共犯以外のなにものでもないからである。
一、翌朝になっても観念にたいする熱望は一向に薄らいでいない。自分は階下におりて夕食の件を依頼した。案の定妻君は快諾した。殺人計画の進行を仔細に知るためには、対抗上、毒物学の知識が必要であるとかんがえ、その足で図書館に行き、妻君の手元にある、
Witthaus, Manual of Toxicology, Kunhel, Handbuch der Toxilogie その他二冊を借りだした。
一、一月十三日、いよいよ今日から観察を開始することにきめ、手帳を一冊用意して、医家の臨床日記のような体裁で、夫婦の言動にあらわれた犯罪的徴候を逐一書きとめておくことにした。詭計《きけい》を用いて意図をさぐりとることは容易であろうが、自分は飽くまでも観察者の位置にとどまることを欲する者であるから、その方法は好まない。自然発生的にあらわれた外部的徴候と、多少の心理的打診による以外に状勢を察知する手段がないが、自分の専門の研究はあたかも一段落をつけたところなので、一日の全部の時間を観察にあてることが出来る。それで一日を三分し、午前を毒物学の研究のために割き、午後は六階の住人の部屋で、夜は夫婦のところで過すことにきめた。
ところでここに一つの困難というのは、毎日六階の住人を訪問する口実がないことである。彼はすぐれた洞察の才をもった男であるからいい加減な言いぬけでは意図を見抜かれるおそれがある。大人気ない思いつきから、不快をあたえたあの夜以来彼に逢う機会がなかったがその折の陳謝をしながら、適当な口実を見つけようと思って六階へあがって行った。
彼は窓に倚って茫然と暮れかかる巴里《パリー》の空をながめていたが、こちらへ振返ると当惑したようすでだまって椅子をさし示した。なにか都合が悪そうだと見てとったが、それには拘泥せず「この間は失礼した。あの浅薄なやつらをたしなめてもらうつもりでちょっと詐略をしたのだが、意外な結果になって不快をかけてしまった。どうもすまなかった」と詫びをいった。
彼はあの夜のことに触れたくないようすで始終そっぽを向いていたが、唐突《だしぬけ》にこちらへ向きなおると、なんとも形容のつかぬ愁然たる面もちで、「そんなことはどうだっていい。あらたまって詫びるほどのことでもないが、おれはあの晩、異常な経験をして、そのためにまたはじめから研究をやりなおさなけりゃならないことになったんだ」といった。そうして極度の失意をあらわしながら、「哲学的な意味で、賭博をリードするシステムなんてものはありえないというが、それはたしかに真理だ。おれはあの晩愕然とそれを悟った。おれの今までの研究はなんの価値もない。この黒い手帳に書きつけた公式や法則はそれ自身無に等《ひと》しいということを発見したんだ……おれはナ、あの晩夫婦の愚かな計画を思いとまらせるためにわざと負けてみせてやろうと思ったのだ。十年も研究したという男がだらしのない負けかたをしてみせたら、いかに無謀な夫婦でもルウレットで一旗あげようなんてことは思い切るだろう。そこでおれは出鱈目な組合せをつくって、どこまでも機械的に押しとおしてやろうとかんがえた。この方法では、絶対に勝つはずがないのだ。『まず黒を頭にした(2―2―1―3)という組合せを何度でもくりかえしてやろう』そこでいきなりはじめたところがご覧の通りの結果になった。(1―1―1―2)というでまかせな組合せで抵抗することにした。するとどうだ。またその通り目が出るじゃないか。負けようとあせればあせるほど勝ちつづけるのだ。おれがなにをいいだすつもりか貴様にはもうわかったろう。勝負にたいして絶対に無関心な人間だけがルウレットを征服出来るということだ。ルウレットと戦うにはシステムだけではなんの役にもたたぬ。それと同時に、勝負にたいする絶対な無関心……純粋に恬淡《てんたん》なところが必要だ。システムを活用できるのはそういう破格な精神の持ち主にかぎるのだ。仮りに賭博にシステムがあるとすればそのような微妙な状態においての
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