み存在するのだ……しかるにこのおれはまるで餓鬼のように勝ちたがっている。おれはどんな守銭奴よりも強慾だ。このおれがシステムなんか持って出かけていたらかならず、やられてしまったにちがいない。慄然としたよ……おれはこれからそのほうの研究をはじめる。修業しぬくつもりだ。そういう心の用意ができるまでは絶対にルウレットはやらん……しかしだナ」といってニヤリと笑うと、「そういう高邁な精神を持つようになったら、ルウレットなんかやる気はなくなるだろう……あの晩の貴様のやりかたは愉快でなかったが、この点では感謝してもいい。それからもうひとつ……いや、これはいうまい」
なぜか頬を紅潮させて窓のほうへ眼をそらした。憔悴した頬が少年のそれのように生々とかがやき、あたかも真紅の二つの薔薇が咲きだしたかの如き印象をあたえた。やがて彼はいった。「ひとりでしゃべったが貴様の用はなんだ」自分は、これから毎日、話しにきたいといった。「むしろ忝ない」と彼がこたえた。
一、五日目にはじめて彼を訪ねた。毎日訪問することにしておいたが夜を除く以外の時間をもって大急行で毒物学の知識を摂取する必要があったからである。今日の主たる目的は殺される人間というものは直前どんな人相をしているものかそれを見届けるためであった。一般に上停《じょうてい》に赤斑が現れるのは横死の相だという。そんなものがあらわれはじめているであろうか。
彼は頭を抱えて長椅子に仰臥していた。その顔には苦悩の影がやどっていたが、不吉を感じさせるようなものは見られなかった。彼はチラリと目だけうごかして自分のほうを見ると、「おい、おれはみょうなことになったよ」ととつぜんにいった。「おれは熱烈にあの妻君を愛するようになってしまった。これだけは君にも告白しないつもりだったが苦しくて我慢できぬからいう……どうしてこんなことがはじまったか説明は出来ぬ。おれは過去にこんな経験を持たぬので、これを恋愛だと認めるのさえだいぶ暇がかかった。はじめおれはたぶん情慾だけの問題だとかんがえたのでスファシクス(巴里の公認女郎屋の名)へ出かけてみた。そしてこの感情は肉体の飢餓でなく、心の飢餓によってひきおこされたものだということを知った。
四十三歳ではじめて恋愛をしたといったら貴様は笑うかもしれぬ。しかしどういう激烈な状態ではじまるものかそれだけは察してくれるだろう。この十日の間どのくらい悶え悩んだか、説明したところで通じるはずはないからいわぬ。ただおれは人間が経験するであろう苦悩の最も深刻なものを経験したとだけいっておく。率直にいうが、おれはあの細君に愛されたい、おれのものにしたい。おれはあこがれ、渇望していまにも気が狂いそうになる。しかし、それはもとより不可能だ。芸術と賭博と、二つの愚かなもののために恋愛する資格を消耗してしまった。おれにはもはや青春も健康も精力も残っていない。のみならず彼女は人の妻だ。これは厳粛なことだ。おれの道徳はどんな理由があろうとそれを侵すことはゆるさぬ……非常に苦痛だが、なんとかしてこの感情を圧し殺してしまうつもりだ」
自分はついにひと言でも発することができなかった。低調な精神をもってこの壮烈な魂になにをいいかけようというのか。そしてここに明瞭な運命の初徴を見た。依怙地《いこじ》なまでに無器用なやりかたを。
一、その夜部屋へひきあげようとすると亭主が、「このごろ南京虫がふえてやりきれぬから、部屋を密閉して燻蒸消毒をするつもりだ。ついでだからあなたの部屋もやってあげましょう。二日だけ近所のホテルへでも行ってくれればすむのだから」と云った。「やってもらってもいいが、燐などを燃されては標本が駄目になってしまうが」というと、「いや、そんな心配はありません。ピュネリマという無害の燻蒸薬です」とこたえた。
部屋に帰るやいなや、ピュネリマとは、いかなるものかを調べて見た。それはシャン化物で燻蒸する際に発する水シャン化酸|瓦斯《ガス》の微量を吸いこむともはや絶対に助からぬ。そして極めて周到な解剖と精密な毒物検出試験によるのでなければその死因がなんであるか証明することが出来ぬのである。オリヴアの「中毒死及その実例」に、六年前ニースのホテルで起った事例が記述されている。ホテルの支配人は空部屋に燻蒸消毒を施したが、二階の部屋に寝ていた男がわずかばかり階下から洩れて来た瓦斯のために死亡したのである。死因は全然不明であったが、ある個人的な理由によって、再三、精密解剖と毒物検出の実験が施されたすえ、辛うじて判明した。自分の部屋でシャン化の燻蒸を行い、その瓦斯の微量が上の彼の部屋へ洩れて行ったら……その結果はきわめて明瞭である。
階下の部屋を消毒することがその階上の人間の死を意味するなどと誰が思いつくものだろう。巧妙な夫婦の計
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