闡オえて、支那の女のようにしている。二十四五歳であろうか。どんな男をもどきりとさせずにおかぬような煽情的な眼付で手を握ると、「ようこそ」といった、それが自分には、Je t'aime(汝を愛す)といわれたような気がした。そんな錯覚を起させる過度なものが、たしかに抑揚《アクセント》の中に含まれていた。
この夫婦はアメリカの生れのいわゆる第二世同志で、夫のほうは声楽を妻君のほうはピアノの勉強をしているということだった。
食事と身上話がすむとお定まりのアルバムが出てきた。いずれの前例に劣らず退屈千万なものだった。その中に博徒のような無惨な人相をした角刈の男の写真があった。自分は興味を感じ、親族かとたずねると、それは布哇《ハワイ》の大漁場主で赤の他人なのだが、二人の勉強ぶりに感激して義侠的に三年の巴里遊学の費用をひきうけてくれ、いまここで勉強しているのはこのひとの後援によるものだといった。
部屋へ帰ろうとしてたちあがると、そのとき窓にそってはるか階上から盛んに落下する物音をきいた。尿《いばり》の音にちがいなかった。自分はある爽快さを感じ、どんな奴の仕業かと、たずねると、あなたのすぐ上にいる日本人がやるんです。もとは画かきだったということですが、毎日部屋にとじこもってなにか計算ばかりしているんだそうです。この宿にはもう十年以上もいるとききましたといった。
一、一月一日の朝のことである。上の部屋で傍若無人に飛びはねる粗暴な物音で眼をさました。いったい上の部屋の住人はこれまでも夜っぴて部屋を歩きまわったり、けたたましく椅子を倒したりして悩ましたが、この朝の騒ぎはじつに馬鹿馬鹿しいもので、そのために天井の壁土が剥離《はくり》してさかんに顔のうえに落ちてくる。これは我慢がなりかねた。
無言で扉をおしあけると、眼の前にいささか常軌を逸した光景が展開した。広い部屋の床全面に約二尺ほどの高さにおどろくべき量の紙屑が堆積し、壁にはいたるところに数字と公式が落書してあった。床の上で自在に用便するとみえ、こんもりと盛りあがった固形物が紙屑のあいだに隠見していた。
長椅子の上には、極めて痩身の四十歳位と思われる半白の人物がいて、敵意に満ちた眼で自分を凝視していた。それは何千人に一人というような個性的な顔で、額は異様に広く顎は翼のようにつよく張りだし、房のような眉の下には炎をあげているような強烈な眼があった。
彼は無断侵入が真に憤懣《ふんまん》に耐えぬようすで「貴様なんだ」と叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]した。自分はほとんど眼も口もあけられぬ異様な悪臭に辟易《へきえき》し「臭くてこれじゃ話もなにもできぬ。いま窓を開けてから話す」と答えながら斜面の天井についている窓をおし開けた。
「天井の壁が落ちてきて物騒でしようがない。暴れるのもいい加減にしておけ」彼は急にうちとけた口調になって「実はナ、今日うれしいことがあってだれかと喋りたくてしようがなかったところなんだ。おれが騒いだために貴様がやってきたというのは、こりゃなかなか運命的な話だぞ……争われないもんだ。貴様があんな口調でものをいったのがおれの感情にピッタリした。忙しくなかったらしばらくそこへ掛けて行ってくれ。実はナおれの研究はまさに完成するところなんだ。間もなくおれは無限の財産を手に入れることになるんだ。無限だ。無限、無限! 突飛《とっぴ》にきこえるだろうが、おれは狂人じゃないよ。おれはねこの十年の間ルウレットの研究をしていた。屑箱の中の屑のようなものを喰って、寝る目も寝ずに計算ばかりしてたんだ。いったい丁半《ちょうはん》に法則がないというのが定説だ。早い話がポアンカレとかブルヌイユなんていうソルボンヌの大数学者が精密な計算を例にひいて証明している。たとえば奇偶《ハザアル》の遊びで、いま出た目とそのあとの目というものはそのたびに永久に新規《ヌウヴォ》だという。これがかれらの学説なんだ。よろしい……ところがわれわれは千回|骸子《さいころ》を振るといつも半々位の割合で奇偶が出ることをしっている。もし目がいつも新しいものなら、もし奇偶に法則がないものなら、なぜ奇数ばかり、あるいは偶数許り千回つづけて出るような出鱈目なことがないのだろう。それは不可能じゃない、と数学者はいうだろう。それア不可能じゃない」といいながら壁に書きつけた公式を指さした。「君はどういう研究を専門にやっているひとなのだね? あの公式の意味がわかるひとなのかね?」
壁の上にはこんな公式があった。
[#天から6字下げ][#公式(fig46070_01.png)入る]
めんどうくさくなったので、判らぬとこたえた。
「この公式はナ、たとえばルウレットの赤《ルージュ》・黒《ノワール》の遊びで、赤だけがつづけて百回出るようなことは
前へ
次へ
全11ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング