るかも知れないからねえ。……ま、これは冗談だが。……(いつものねちねちした調子で)ねえ、西貝さん、あんたいったいどう思います。あたしあ、もう久我は帰ってこないと思うんだが……。たぶん、上海あたりへ逃げちまったのさ。……若造のくせにいやに舞台ずれ[#「舞台ずれ」に傍点]がしてやがるから、どうせ只もんじゃないと睨んでいたんだ。……それにね、あたしのことを古田にいいつけたのは久我の野郎なんですぜ。だから……、あたしにあこうも思われるんです。古田はただ張扇を叩いただけで、きょうの修羅場を書下したのは、じつは久我なんじゃないか、ってねえ。……古田を煽てて、あたしを殺……」
 西貝はうるさそうに舌打ちをすると、
「はやく殺されちまったらいいじゃないか。(と、つけつけと言って立ちあがると)さっき手紙で呼びよせたのは、こんな用だったのか。……なら、俺あもう帰るぜ」
 乾は慌てて、泳ぐような手つきをしながら、
「いや、そうじゃない。こないだ、あんたが言ったものを用達てようと思って、今日用意しておいたんです。……いま出しますから、まあ、もうすこし坐っててくださいよ」
「そうか、それはサンキュウ。……証文は書くが、しかし、利息をとるとは言うまいな」
「その心配はいりませんよ。なにしろ、あたしとあんたの仲だからね。(そういうと、身体をのりだすようにして)ねえ西貝氏。それで、久我の正体はいったい何です。……青島にながくいたというだけで、一向なにもわかっていないんだが……」
 西貝は、呆れかえったという風に、まじまじと乾の顔を眺めながら、
「……どうも根強いもんだねえ。じつに恐れいっちまうよ。……だから、言ってるじゃないか、なにも知らないって」
「いや、それは嘘だ。……あんたはなにか知ってるくせにあたしに隠してる。(急に憐れっぽい声をだして)ねえ、そう言わずに教えてくださいよ。あたしあ、……あかにし[#「あかにし」に傍点]だが、これで、いちめん純情なところもある男さ。……盗るわけがあって盗ったのなら、密告の返せのといいやしない。ただねえ、白ばっくれていられると我慢がならないんです。ご覧のとおり、無利子無担保で金を貸そうって位の心意気はもってるんだ。……また、きいたからって、決してあんたには迷惑をかけませんよ。……(薄笑いをして)ねえ、殺《や》ったのは久我でしょう?」
「そうならそうと勝手にきめとけばいいじゃないか。なにも俺に念をおすことはなかろう。……(大きな声で)執拗すぎるよ、君は」
「ま、そう腹をたてずにおしえてくださいよ。(脅かすような眼つきをして)さもないと……」
 キッとして、
「さもないと、なんだ」
「へ、へ、あたしは手も足も出ないんです。……それはそうとねえ、西貝さん。久我が刑事だという噂もあるんだが、あんた知ってますか」
「警視庁の高等課で会ったことがあるって、だれか言ってたが……」
「やっぱり知ってたのか。……ひとが悪いねえ、あんたも。……しかし、それは本当ですか」
「大阪府警察部の思想係だというんだが、本当かどうか俺は知らん」
 乾はわざとらしく首をひねりながら、
「……すると、台湾へは絲満の身元調査に行ったのかな。……それとも犯人でも追いこんで……」
「ばかな。思想係だといってるじゃないか。……そうだとすれば、ちょっと思いあたることがある。……あいつ、あの朝〈那覇〉で、なにげなく四日前に東京へきたと口をすべらしたろう。……大阪で銀行襲撃があったのは、絲満事件のちょうど五日前だ。……事件が起きるとすぐ足どりをたどって東京へやってきたんだよ。……こんども台湾なんぞじゃない、関西へ飛んで行ったんだ。……ひとりは今朝捕まったが、共犯の中村はまだ関西周辺を逃げまわっているというから……」
「……なるほど、そう聞けば尤もらしいところもあるが、しかし……ワイフをつれて捕物にむかうなんてえのは前代未聞だね」
「このごろは警察も開化《ひらけ》てらあね。そんなこともあると思えばいいじゃないか。……だがな、乾老……久我はともかく、あの葵ってやつこそ曲者なんだぜ。……那須にだけは話したが、あいつは絲満が殺られた晩の午前一時ごろ、非常梯子をつたって、そっと戸外へ抜けだしてるんだ。……ちょうど葵の下の部屋におれの大学時代の友達がいる。そいつが見つけて、妙なこともあるもんだと、おれに話してくれたんだ。……ふふん、刑事の嬶が人殺しじゃ、こりゃ、すこし行きすぎてると思ってねえ……」
 乾は、へえ、と顎をひいて、
「そりゃ、……ほ、ほんとうに葵だったのかね?」
「ほんとう、たあなんだ。……葵がひとりしかいない部屋から女が出てくれあ、それあ葵にきまってるだろうじゃないか」
「あんたそれを警察でもいったのかね」
「だれがそんなお節介をするもんか。おれの知ったこっちゃありゃしまいし。……おれが云わなくたって時がくればわかる。……いわゆる、……天網恢々、さ」
 乾はなにかしばらく考えこんでいたが、やがて、勢いこんで、
「しかし、こんな風にも考えられるねえ。……あの晩、葵の部屋にもひとり女がいて、出て行ったのは葵でなくて、そいつ……」
 西貝がふきだした。
「おい、乾老……評判どおり君は葵に惚れてるんだな。……なるほど、君のブラック・リストから葵の名が消えてるわけだ。……するてえと、あとに残ったのはだれだれだね? (妙に探ぐるような眼つきをして)久我、……古田……」
 乾がぽつりと口をはさんだ。
「それから、あなた」
 西貝の膝がピクリと動いた。急に顔色を変えると怒鳴るようにいった。
「おれ? 冗談いうな」
 乾はおちつきはらって、
「いや、大いに理由があるんですよ。(西貝の眼を見つめながら)西貝さん、あの晩の午前二時頃あんたどこにいました?」
 ……返事がなかった。
「午前二時ごろ〈那覇〉の、……いやさ越中島であんたを見かけたってやつがあるんだがねえ。……いったい、あの辺にどんな用があったんです」

     6

 葵はホテルの窓ぎわに坐って、落着かない心で空を眺めていた。
 神戸へついて六日以来、この空は灰色の雲にとざされ、夕方になるときまって小雨を落した。その雨のなかでときどきゆるく汽笛が鳴る。それが葵のこころを茫漠とした悲しみのなかへひきいれるのだった。
 すこしひろすぎる部屋のなかは、森閑として昼でもうす暗く、大きなダブルベッドもソファも卓も、花瓶の花も……、なにもかもみな乾き、しらじらとしらけわたっていた。
 この二三日、葵はなにか得体の知れない感じにつき纒われ、わけもなく焦だったり憂鬱になったりしていた。時には涙までながれだすのだった。それがなんであるか、葵自身もはっきりと言い解くことが出来なかったが、強いていえば、不吉な予感というようなものだった。
 葵は幸福だった。彼女は思いがけなく愛するひとを獲、しかもこれがその新婚旅行なのだった。久我はいつも優しく、彼女を喜ばすために、なにものも惜しまぬ風だった。
 久我は葵のために露台と浴室のついた広い部屋をえらび、毎朝夥しい花を届けさせ、どこもかしこも花で埋めるのだった。毎朝葵は花のなかで眼をさます、この楽しさはたとえようがなかった。
 二人は外出もせずに一日中部屋のなかで暮していた。食事も部屋へとりよせて長い楽しい時間をかけて喰べた。葵はとりとめのないことを熱心に喋りつづけ、久我は葵のために小説や詩を読んできかせた。葵はこんな小説の題をみたことがある。……「|花の中の生活《ラ・ヴィ・ダン・レ・フルウル》」。そして彼女はかんがえる。〈その小説のなかには自分と同じように幸福な娘が住んでいるのであろう……〉
 ところが、この楽しい生活に、なに気ない風ですこしずつ翳《かげ》がさしかけてきた。
 着いてから三日目の朝、ボーイが久我に手紙をもってきた。差出人の名がない白い贅沢な封筒だった。葵が受取ってなに気なく鼻にあてると、ほのかにヘリオトロープの匂いがした。
 久我は封をきると、チラリと眼を走らせただけで、そそくさとポケットへおしこんでしまった。なにか妙な気がした。葵が、なんの手紙か、とたずねると、久我は顔をすこし赧らめて、
「公用だ」
 と、それだけいうと、ついと立って、露台のほうへ行ってしまった。あわてて逃げだしたとも思われるのだった。
〈ヘリオトロープの匂いのする公用〉……そんなことがあるべきはずはない。しかし、久我のうろたえかたがあまり際だっていたので、おしかえしても訊けなかった。
 もしかしたら……。それだっていいではないか。この美青年を見てどんな女が愛さずにいられるであろう。仮りに彼のうしろにどれほどの女が横たわっていようと、それは自分にとって関係はない。この現在の真実に自分を愛してくれるなら、彼の過去の経歴などはどうでもいい。まして、自分こそ過去を偽っている。久我をとがめ立てする権利は自分にはない。手紙の主をうちあけてくれぬのはすこし情けないが、それなら、それでもいいのだ……
 しかし、この二三日葵につきまとっている不安というものは、そんなたわいのないことではなかった。いささか奇異な、もっと捕捉しがたいものだった。
 久我はいいようなく優しく、のみならず、ときにはすこし度をこえたようなところさえあるのだった。葵にとってこれが嬉しくないわけはない。が、同時にまた、なにか奇妙な感じも起させるのだった。この優しさは夫が妻にたいするそれでなくて、不幸な人間にたいする憐憫の情にちかいように葵には思われるのである。思いあわせると、いろいろとそんなところが気につくのだった。
 このホテルへついてから、葵を慰めいたわるために、久我はさまざまと骨を折っているようすだった。時にはふだんの慎みも忘れて、ひどく軽い調子でふざけてみせたりした。それが身につかず努力して振舞っていることがありありとみえ透いた。当然触れなければならぬはずの葵の過去についても、ただの一度も触れようとせず、それを故意に避けているようすさえ見えるのだった。そして、われわれの文法に必要なのは、現在形と未来形だけだ、といく度もくりかえしていった。一度は葵も尤もだと思い、二度目も肯いた。しかし三度四度となると、へんな気がしてくるのだった。
 久我がなぜこんなことを口にし、なんのためにこんな振舞をするのか、どうしても葵には了解することが出来なかった。最初は葵が劣性家系の出であることを知って、それをそれとなく慰撫するために、こんな態度をとるのかと思った。しかし、葵と偽名しているこの娘が、じつは大名華族の、和泉家の長女であることを東京で知っているのは彼女自身とむかしの家庭教師、志岐よしえだけである。よしえは東京にはいない。いま失踪中なのである。
〈……すると、もしかしたら久我は、あたしが絲満を殺したと信じているのではないだろうか、と彼女はかんがえる。……久我はそう信じ、いやな思い出を忘れさせようと、いろいろに慰めている……〉
 葵の想像がそこに行きつくと、彼女はなぜかひどく感傷的になって悲哀とも感激ともつかぬ涙をながすのだった。
〈……あたしを東京からひき離して、こんなところへ押し隠すようにしておくのは、すると、あたしを検挙の手から逃避させるためなのだ。台湾へ行くといったのも、じつは公用でなく、あたしをそこまで逃がすつもりだったのだ。こうするためには彼は地位さえも抛つ気かもしれない。もしそうなら、……こんな無益な犠牲と努力をやめさせなくてはならない……〉
 しかし、またもうすこし考えすすめると、必ずしも葵のためにやっているとばかし思われない節もあるのである。
 久我の過去についても、葵はなにも知らなかった。高等刑事だということと、その以前は詩人であったということのほか、ほとんどなにも教えられていなかった。しかも、彼が警察官だとするとその行動はまったく腑に落ちないところがあった。
 東京を出発するときは公用で台湾まで行くといい、途中で上海に変更されたといい、神戸へつくと、すこし重大な事件が起きたからここですこし活動しなくてはならない、という。そのくせ、電報をう
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