り、思想関係者の仕業だったのである。
 さすがの絲満事件も、この激発のためにはねだされて、甚だ影のうすい存在になってしまった。夕刊には古田子之作が証拠不充分で今朝釈放された、という記事が、申訳のように十行ばかり載っているだけだった。
 乾は眉をよせてしばらく考えこむ。それから、いまいましそうに舌打ちすると、夕刊を小さく折りひしいで、濡れた羽織といっしょに寝台の上に投げだした。
 風が強くなって、鎧扉のすきまから雨がふきこんできた。乾は、ガラス窓をしめ、重そうなカーテンをひくと、どっかりと椅子の上へあぐらをかいた。机の抽斗から大きな紙挾みを出す。夥だしい新聞の切抜きのなかから四五枚の写真をえらびだすと、一枚ずつ丁寧に机の上に並べ、頬杖をつきながら一種冷酷な眼つきでそれを睨めまわしはじめた。西貝、古田、久我、葵、〈那覇〉のボーイ……、絲満事件の参考人や容疑者たちの写真である。
 いったい、人間がひとりでいるときは、だれでもふだんとすこし人相が変るものだが、いまの乾の顔は、いつもの卑しい眼尻の皺も、人を喰ったような冷笑もなくして、まるで、ちがうひとのようにみえる。いささか崇高にさえ見えるのである。なにか考えあぐねているらしく、ときどき呻き声のようなものをもらす。ながいあいだそんな風にしていたのち、
「……けっきょく、このなかにはいない、のかも知れん……」
 と、呟きながら、古田の写真をとりあげた。古田は軍服を着て、二十人ばかりの輜重自動車隊のまん中で得意そうに腕組みをしていた。
 つくづくと眺めたのち、急に顔を顰めると、ずたずたにひき裂いてそれを床の上へ撒きちらした。
 階下のどこかで、なにか軽く軋るような音がした……。乾は気がつかぬらしい。こんどは久我の写真をとりあげる。写真の面をていねいに掌で拭うと、その端に書かれた横文字を妙なアクセントで読みあげた。
「ウイズ・ベスト・レスペクト……、最上なる敬意を以て、か……。ふふん、肚のなかじゃひとを小馬鹿にしてるくせに。顔も辞令もすこし美しすぎるよ、こいつのは……。要するに得体の知れない人物さ。……だが、いまに化の皮がはげる。……こんな風にすましてると、いかにも愚直らしいが、この眼だけは胡魔化せない。そういえば、なるほど岡っ引の眼のようにも見える。……が、しかし……」
 階段がミシリと鳴る。乾は腰を浮かせて、キッとそのほうへふりかえる。鼠がひどい音をたてて天井裏を駈けていった。
「ふん、鼠か……」
 安心したように机へ向きなおろうとすると、また、ゴトリと鳴った。かすかに靴底の擦れる音がきこえる。……そっと誰れか階段をあがってくるのだ。抽斗のなかへ手早く写真をさらえこむと、ふりかえりざま、
「どなた」
 と、叫んだ。……返事がない。
(そうそう、さっき西貝を迎いにやったっけ。……畜生め、なんだって黙ってあがって来やがるんだ)
 立ちあがりながら、乾が声をかける。
「西貝君かね」
 扉がしずかに開いた。
 はいってきたのは古田子之作だった。蒼ざめて、ひどく兇悪な顔をしていた。唇がピクピクとひきつり、その間から白い歯が見えたり隠れたりしていた。後ろ手で扉をしめると、くゎっと見ひらいた眼で乾を見すえたまま、のっそりと近づいてきた。帽子を[#「帽子を」は底本では「帽子をを」]ぬいで雫をきりながら、
「よう、今晩は」
 と低い声で、いった。
 乾は眼に見えないほど、すこしずつ寝台のほうへ後しざりをする。古田は椅子をひきよせて掛けると、ニヤリと凄く笑った。
「今日は、お礼にやってきた」
 乾はわざと驚いた顔で、
「……お礼……、何ですか、そりゃ……、あたしはべつにあんたから……」
「やかましい!」
 ピタリ、と口を封じられてしまった。
「その前にすこしききてえことがある。突っ立ってねえで、そこへ掛けろ」
 乾は用心深く寝台にかける。
 古田はがっちりと腕組みをして、
「ときに、お前の商売はなんだ」
「……ごらんの通り、古家具をやっておりますが……」
「そうか。……じゃ、お前はべつに警察の人間というわけでもねえのだな」
「飛んでもない……」
「じゃア、なんのためにおれを密告《サシ》た。……洒落か。……それとも、酔狂か」
 古田の歯が、カチカチと鳴った。
 乾は扉のほうへチラリと眼を走らせる。
(こりゃ、助からないことになった。……本当のことをいったら、なにをしでかすかわかったもんじゃない。……ひとつ、なんとか胡魔化して切り抜けるか……)
 古田は叱咤した。
「なんとか吐かせ!」
 乾はどういう工合に切り抜けたものかと考えながら、
「……サス? ……なんのことだか、一向どうも……、あたしは、ひとさまに迷惑をかけるようなことは、ついぞ……」
「野郎! しらばっくれやがって!」
 古田が立ちあがった。乾は腰をかがめてバタバタと扉のほうへ逃げる。壁のところですぐ追いつめられてしまった。
 古田は乾の襟がみをつかみ、ずるずると寝台のところまで引きずってきて、あおのけにその上へ圧えつけると、左手で乾の喉をしめながら、右手を上衣の衣嚢に突っこんで匕首をひきぬいた。乾の鼻の先でドキドキとそれが光った。いまにもグサリと喉元へきそうだった。
「助けてくれ」
「ぬかせ!」
 首すじにヒヤリと冷たいものがさわった。
「それあ……無理だ……あたしはなにも……」
「殺《ヤ》るぞ!」
 力まかせに喉をしめる。
「く、……くるしい……」
「てめえが密告《サシ》たと教えてくれたやつがある。……言え!」
〈こんな気狂いとやりあったって仕様がない。まあ、する通りさせておけ。……まさか殺すまでのことはしやすまい。……それにしても、どいつが言やがったんだ〉
 わざと怒ったような調子で、
「だれだ、それあ。そんな、余計なことを……言いやがった奴は!」
「久我だ」
 乾は歯がみをした。
〈ちくしょう〉それから、まるで唄でもうたっているような憐れっぽい口調ではじめた。
「……ああ、それで、わかった。……あいつ、あんたを煽てて、……あたしを、殺さすつもりなんだ。……あたしを殺し、それから、あんたをのっぴきならぬところへ、追いこもうという、これあ一石二鳥の詐略なんだ……。ここの理窟を……よく考えて見て、ください。……して見ると、絲満をやったのは、……やっぱり、久我だったんだ。……いまにして、思えば、あたしも、やっぱり煽てられていたんです。……まったく、あいつに教唆《シャク》られ、やったことなんです……」
〈われながら巧いことを言った、と思った〉果して、喉がすこし楽になった。
 古田の顔が、ぐっと近くなる。
「てめえ、それあ本当か」
 そう言えば、すこし思いあたることもある、といった風だった。
「けして、嘘などは申しません。……いい齢をして、あんな青二才に教唆《シャク》られたかと思うと、……あたしあ……」
 なんだか泣けそうになってきた。
〈よし、泣いてやれ〉……工合よく涙が流れだしてきた。しゃくりあげて泣いた。
 古田は乾をぐっと引き起すと、
「嘘か本当か、いまにわかる。……嘘だったら、その時あ……」
 そういって、じろりと睨みをくれた。
〈糞でもくらえ。貴様こそ用心しろ。いまに思い知らせてくれるから……〉
 乾はていねいにおじぎをした。
「どうか、ひらにごかんべん願います」
 古田はパチリと鞘音をさせて匕首をしまうと、乾をこづきまわしながら、
「やい! おかげでおれあクビになったんだ。……妹は離縁《しくじ》るしさ、おっ母アは揮発をのむ……まるで、地獄だ。……それもこれも、みなてめえのした業だぞ。……やい、あやまれ! 土下座してすみませんでしたと言え!」
 乾は前をはだけたまま、みじめな恰好で床の上に坐ると、ペコペコと頭をさげた。
「なんともどうも、お詫のしようも……」
 ようやく顔をあげたとおもうと、顎の下へ猛烈な勢いで古田の靴の先が飛んできた。乾は、ぎゃっ、といって、あおのけにひっくりかえった。這いずりながら扉のほうへ逃げようとすると、また脇腹へ眼の眩むようなやつがきた。思わず、うむ、と呻き声をあげた。古田は乾を床へねじ倒す、こんどは胸の上へ馬乗りになって、力まかせに、止めどもなく撲りつづけるのだった……

 戸口に西貝の姿があらわれた。
 呆っ気にとられて、突っ立ったまま、ぼんやりとこの光景を眺めていた。
 最後にひとつ、猛烈なやつを横っ面へくれておいて立ちあがると、古田は西貝を手荒くおしのけ肩をふりながら出ていった。
 長く伸びている乾のそばへよると、西貝はその顔のうえへしゃがみながら、
「おい、どうした」
 と、ふざけた調子でいった。
 上唇から顎へかけて、夥しい鼻血が流れ、暗がりで見ると、急に髯がはえたようにみえるのだった。むくんだように顔は腫れあがり、熱をもってテラテラと光っていた。
 西貝の声をききつけると、乾は腫れあがった瞼をおしつけながら、
「やられましたよ。(と、案外に元気な声でいいながら、そばにころがっている金盥を指さし)すまないが、階下へ行ってそれに水を汲んできてくださいな。……それから、台所に手拭いがあるから……」

 西貝が水を汲んで二階へあがってみると、乾は寝台に腰をかけ、新聞紙をひき裂いては、しきりに鼻孔につめ[#「つめ」に傍点]をかっていた。
「おい、乾老。……いったい、どうしたってんだ」
 乾は手拭いをしぼって鼻梁にあてながら、
「……あたしが密告したのをききこんでやってきたんです。……どうも、ひどい目にあわせやがった」
 すると、西貝はせせら笑って、
「……ふん、そうか。それなら、ま、仕様がなかろう。……いずれ一度はやられるんだ。因果応報だと思ってあきらめるさ。……しかし、妙な面《つら》になったねえ、歪んでるぜ」
 乾は大げさに額をおさえながら、
「……どうも頭の芯が痛んでならない。顔なんぞどうでもいいが、一時はだいぶ物騒でしたよ。匕首《あいくち》なんかひけらかしゃがってねえ。(と、いって、あとは独語のように)ふ、ふ、ああいう風に向っ腹をたてるところを見ると、やはりあいつが殺ったのじゃなかったかも知れん」
 西貝は、どたりと机の上へ両足をのせながら、
「……あの勢いなら絲満ぐらい殺《や》りかねないじゃないか。……しかし、案外あれで堅気なのかな。……いや、そんなことはあるまい。この二三年、絲満などと悪く仲間になってたそうだから、なんだかわかったもんじゃないさ。……それに五人のなかじゃ、なんといっても、あいつだけが絲満の地理に明るかったのだからな。……すると、今日は貴公の口をひっ撲《たた》きにきたのかな」
 乾はうるさく肯きながら、
「そうそう、あたしもそう思ってるんです。……だがねえ、脅かしてあたしの口を塞ごうたって、そううまくゆきやしない。……してみると、どうせあいつも、何か弱い尻をもっているのにちがいないのさ。……いまに見てろい。ひどい目に逆《さか》ねじを喰わしてくれるから……。それに、あいつは……」
 遮ぎりながら、西貝が、いった。
「それはそうと、新婚旅行の久我夫婦は、昨夜無事に発っていったかね」
「ふん、一等になんか乗りこんでね、溌剌たる威勢でしたよ。(急に声をひそめると)それについてね、あたしあ、ちょっと感じたことがあるんだ」
「どう感じた? ……羨ましくでもなったか」
 チラリと上眼をつかって、「……ねえ、西貝さん。まさか久我は逃げたんじゃないんだろうねえ。……もし、そうだとすると……」
「殺《や》ったのは久我だというのかね」
 乾が空嘯いて、いった。
「あんたは知ってるさ」
 西貝がはねかえす。
「そんなことおれが知るもんかい。……へへえ、古田と葵で足らずに、こんどは久我を密告《サス》つもりなんだな。……まるで縁日の詰将棋だ。あの手でいけなきゃこの手か。……おいおい、頼んどくが小生だけは助けてくれよ」
 乾はニヤリと笑うと、
「……いつぞやもいいましたが、遺産をひっ攫ったやつをこの手でとっちめるまでは、死んだってあたしゃあきらめないんだ。……用心なさいよ、おいおいそっちへもお鉢がまわ
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