我と葵は結婚した。
 絲満南風太郎の殺人事件は、はしなくも、とうとう一組の幸福な夫婦をつくることになった。
 二人ながら両親がなく、親戚というものもこの東京に持っていないので、披露式の祝いの席に連なるものは、いきおい、あの朝、〈那覇〉で逢った連中のそれ以外ではなかった。西貝計三、乾老人、……それに、若い新聞記者の那須が一枚それに加わった。新宿の、〈天作〉という小料理店の離れ座敷だった。
 西貝と那須は、大理石の置時計を贈って、大いにきばったところを見せた。
 乾は大きな地球儀を贈った。これで、どうしろというのだ。……その詮議は、どうでもいいとして……
 西貝が、立ちあがって祝辞をのべた。人差指で、鼻の孔をほじりながら、
「……要するに、結婚の功利的方法というのは、一日も早くガキを産んで、自分らの責任を、全部ガキどもになすりつけてしまうことなんだ。七つになったら、どんどん尻をひっぱたいて、小銭を稼がせろ。……いくら出来の悪いガキでも、(歌わせてよ)位はやれるからな。……偶※[#二の字点、1−2−22]、出来のいいのをヒリ出したら、じつにその効用計りしるべからず。……すえは芸者かネ、花魁《おいらん》か、サ、なにも、おやじがあくせくして稼ぐものはねえ、功利的結果が、よってたかって、飯を喰わしてくれらアね。……さればさ、無数のガキを産んで、老後、ますます安泰に暮らされんことを、謹んでいのります」
 そして、両手をあげて、万歳! と叫んだ。那須が、キンキラ声でそれに和した。みな、もうだいぶ酔っているのだった。そんな祝辞があるものか、真面目にやれ、真面目に! 乾老が、泳ぎだしてきて、抗議した。
「……ちょっと伺うがね、そいで、喰わせるほうはどうするのかね」
「わけアないさ。ガキ同志で、相互扶養をやらせるのだ。……兄はすぐのその下の弟を養う義務がある。その弟は、すぐまた下の弟を……。こんな工合に順ぐりにやって行く。……一番ビリのガキは一番上の兄を養う。……要するに、久我夫妻は、手を束ねて見ていれあいいのさ」
 乾が、憎々しい口調で、つぶやいた。
「ふん、新聞記者の頭なんて、たわいのないもんだ」
 これがキッカケになって、二人は口論をはじめた。那須までそれに加わって、追々手のつけられないようになって行った。
 葵は、そんな騒ぎも、ほとんど耳にはいらないようすで、うっとりと眼をほおえませていた。……暗澹たる過去の残像も、記憶も、夢野の朝霧のようによろめきはじめる。霧がはれて、野のうえに、いま、朝日がのぼりかけようとしている。快活な、新しい生活の寝床では、むかしの夢さえ見ないであろう。……なにより、自分はもうひとりではない。赫耀たる詩人の魂をもった、このアドニスは、自分をひいて人生の愉楽の秘所にみちびいてくれるのであろう。……葵は、そっと卓の下をまさぐった。そこに、久我の手があった。それが葵の小さな手を、そのなかに温く巻きこんだ。葵の背すじを、ぞっ、と幸福の戦慄が走った。
 口論がひと句切りになったとみえて、西貝が、亀の子のように首をふりながら、葵のほうへ近づいてきた。
「……人殺しイがア、とりイもつ縁かいな、と。……愉快ですなア、奥さん」
 と、いいながら、いやらしく、葵の肩にしなだれかかった。葵は、微笑しながらうなずいた。
 那須が、むこうのはしから、君、葵君、といいながら立ちあがってきた。
「ねえ、葵君。……ダンサア稼業に訣別の夜だ。記念のためにタンゴを踊ろう。……(久我のほうへ顔をつきだしながら、)ね、いいだろう、久我。……妙な面アするなよ。……亭主なんか、どんな面をしたって、かまうもんか。……葵君、さ、踊ろう、踊ろう……」
 葵の手をつかみ損ねて、卓の上へのめり、勢いあまって、喰べ荒した皿小鉢といっしょに、乾の膝の上へころがって行った。それで、またひと騒動がはじまった。

 纒いつくように、夫に寄りそって、中野の、二人のアパートまで帰りながら、葵は、歌いだしたいほど幸福だった。
 久我が、いった。
「……今週の終りごろ、僕は公用で台湾まで行かなくてはならない。……(葵の肩を抱きよせながら)もちろん、君もゆく。……竜眼と肉色の蘭の花のなかで、結婚するんだ、ね」
 返事をするかわりに、葵は、眼をつぶって唇をさしだした。木立が影をひく、蒼白い路のうえに立って、二人はながい接吻をした。

 十一時零分、東京駅発、下関行急行。
 二人は大雨のなかを、東京を発っていった……。
 乾が、息せききって駆けつけてきて、大阪寿司に一箱のキャラメルを添えて、二人の窓のなかへ押しこんだ。
「すぐ帰って来ますわ」
 葵が、乾にいった。そして、そのほうへ子供のような、小さな、嫋やかな手をさし出した。
 汽車が出て行った。

     5

 乾が帰ってきた。夏羽織の肩も裾もぐっしょりと濡らして、まるで川へはまった犬っころのようなみじめな風態だった。
 ぬれた内懐から気味わるそうに鍵をひきだして、鍵孔にさしこもうとすると、思いがけなく、すうっ、と扉が内側へあいた……
 急に眼つきを鋭くして首をかしげる。しめ忘れたはずはない。……だれか内部にいるのだ。扉のすき間に耳をあてて息をころす。それから、二三歩身をひくと、きっと二階の窓を見あげた。
 西洋美術骨董、と読ませるつもりなのだろう〈FOREIGN ARTOBJECTS〉と書いた看板のうしろで、窓の鎧扉がひっそりと雫をたらしていた。飾窓も硝子扉もない妙に閉めこんだ構えの、苔のはえたような建物だった。
 扉をあけてそっと店のなかへはいり、身体をまげて板土間の奥のほうをすかして見る。
 足のとれた写字机、石版画、セーブル焼の置時計、手風琴、金|鍍金《メッキ》の枝燭台、古甕……鎧扉の隙まからさしこむ光線のほそい縞の中で、埃をかぶった古物が雑然とその片鱗を浮きあがらせている。その奥のうす闇のなかで、ちらと人影らしいものが動いた。
 入口の扉に鍵をかけると乾はずかずかと、そのほうへ進んでいった。
「誰だ、そこにいるのは!」
 闇のなかの人物は身動きしたのであろう。かすかに靴底の軋む音がした。どうやら長椅子のうしろにいるらしい。
「出てこい、こっちへ!」
 古物のなかから三稜剣をぬきだして右手に握ると、スイッチをひねる。長椅子にむかって身構えをしながら、乾が鋭い声で叫んだ。
「出てこないと、これで突っ殺すぞ!」
 十八九の、小柄な娘がひょっくりと顔をだした。眼だまをくるくるさせながら、おどけた調子でいった。
「|泥棒だゾ《ヌストドーイ》」眼の窪んだ、つんと鼻の高い、すこし比島人《フィリッピンじん》じみているが、愛くるしい健康そうな娘だった。伸びすぎた断髪をゆさゆさとゆすぶり、小粋な蘇格蘭土縞《エコッセエ》のワンピースを着ていた。力の抜けたような声で、乾がいった。
「……|お前《イヤー》、……鶴《チル》……」娘は背凭せを跨いでどすんと椅子のなかへ落ちこむと、おかしな節をつけて唄った。
「……天から落たる絲満小人《イチウマングワー》、幾人《イクタイ》揃うて落たがや!」
 そして、嗄れた声で、は、は、と笑った。
 突っ立ったまま、乾はひどく険しい顔で、
「鶴《チル》! どんな風にしてはいってきた」と、怒鳴った。
 鶴が口を尖らして、こたえる。
「|開いてたよ《エーテタンド》」
「|嘘言だろう《ユクジデンアラノ》、|錠がおりてた筈だ《ジョウナウチトタフアズド》。(そういうと、つかつかとそばへ寄っていって、ギュッと鶴の耳をひっぱった)おい! ここへやって来てはならんと言っておいたろう、どんなことがあっても!」鶴は平気な顔で、うん、とうなずいた。
「それから、琉球《オチナワ》言葉をつかってならんと言っといた。……そういう約束だったな、鶴」
 鶴はそっぽをむいて、西洋人がするように、ぴくん、と肩を聳やかした。乾はまじまじとその横顔を見つめながら、
「よしよし、いつまでもそんな風にふくれていろ。|お前達《ウイダ》にはもう|加勢せんから《ヤサビランドイ》……」
 くるりと向き直ると、急に鶴は大人びた顔つきになって、
「いつもの伝だ。……いちいちそんな風に言わなくたっていいじゃないか。来ちゃいけないことは言われなくたって知ってるよ。……来る用があるから来たんだ。この雨にさ、薄馬鹿みたいに戸口に突っ立ってたら、かえって可笑しかろうと思って入ったまでなんだ。悪かったらごめんなさい」
「きいたことに返事をしろ」
「野暮なことをきくなよ。……だから、いってるじゃないの、天から降ってきたって……」
 横をむいて髪の毛をいじりはじめた。すると、なぜか乾は急にやさしくなって、
「……お前がここへ出はいりするのを見られると、じつにやりにくくなるのだ。それもこれも、お前たちのために……」
 鶴が、ぴょこん、と頭をさげた。
「……悪かった。……だって、いきなり怒鳴りつけたりするから……」
「それですんだら結構だと思え! ……それで、ここへ来たとき通りにどんなやつがいた」
「……第五府立のほうから、風呂敷包《フチコビツツ》み……、風呂敷包みを抱えた女学校の先生がひとり……。紙芝居のチョンチョン……。子供が三人……。それだけ」
「路地の入口には?」
「だれもいなかった」
 乾は、ふむ、ふむ、とうるさく鼻を鳴らしながら、
「……ま、いなかったとしておこう……」
 と、いって入口のほうへ歩いてゆき、ほそ目にあけた扉のすきから頭だけだして、あちらこちらと通りをながめると、また鶴のそばへ戻ってきた。
「それで、どんな用事だ」
 鶴がむっつりと、こたえる。
「電報がきたんだ」
 キラリと眼を光らせて、
「なんといって」
「シャンハイニユクモヨウ。コウベ、トア・ホテル」
 乾は膝の上へ頬杖をついて、しばらく黙っていたのち、藪から棒にたずねた。
「いま、何時だ」
 腕時計に眼を走らせて、鶴がこたえる。
「七時十分」
 乾が急にたちあがる。鶴の手首を握りしめながら、
「いいか、これからすぐ神戸へ発つのだ。七時三十分の汽車。あと二十分。金は?」
「五十円ばかし」
「よかろう。……(じっと、鶴の眼を見つめながら)……それから?」
 ハンド・バッグを顎でさしながら、
「あの中にはいっている」
「よし!」
 そういうと、机へはしり寄って、ペンの先を軋ませながら、せかせかと手紙のようなものを書きだした。間もなく、二つの封筒を持って鶴のほうへもどってくると、それを渡しながら、
「この茶色のほうを神戸まで持って行くのだ。渡したらすぐ帰ってこい。こっちの白いほうは、行きがけに西貝のアパートへおいて行け。手紙受へ投げこんでおけばいい」
 無言のままで立ちあがると、鶴は手早くゴム引のマントを着、頭巾をま深く顔のうえにひきおろした。こうすると、まるで小学生のように見えるのだった。
 乾は先にたって戸口までゆくと、また念いりに通りをながめ、それから鶴の肩へ両手をかけて前へ押しだすようにした。
「行ってこい」
 ふりかえりもせずに、鶴は雨のなかへ出て行った。
 路地の角をまがって見えなくなると、乾は扉をしめて奥の階段の下までゆき、そこで立ちどまったまま、なにかしばらく考えているようすだったが、やがて踊るような足どりで二階へあがって行った。
 二十畳ほどの広さの部屋で、その奥のほうにこれもどこかの払下品なのだろう、天蓋のついた物々しい寝台がどっしりとすわっていた。窓のそばに桃花心木《マホガニ》の書机がひとつ、椅子がひとつ、床の上には古新聞や尿瓶《しびん》や缶詰の空缶や金盥……その他、雑多なものが、足の踏みばもないほど、でまかせに投げちらされている。
 それを飛びこえたり、足の先で押しのけたりしながら、机のそばまでゆくと、乾は思いだしたように懐から夕刊をとりだして、拾い読みをはじめた。
 絲満事件の五日ほど前に起った銀行ギャングの犯人の一人が、けさ名古屋で捕ったというので、全市の夕刊の三面はこの事件の報道で痙攣を起していた。犯人の自供によって、事件の全貌が明らかになろうとしている。警視庁高等課の予想通
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