ったり、電話をかけたりするほか、めったに外出もせずに贅沢なホテルで葵と遊びくらしている。なにかしらひとに顔を合わしたくないようすで、このホテルでは山田と偽名さえしているのである。東京以来、ことにここへきてからの金のつかい方は、すこし度をこえている。〈こんなたくさんなお金はいったいどこから出てくるのだろう。……もしかしたら、警察官などというのは嘘なのではなかろうか。……そして、事によったら…絲満の……〉
ここまで考えてくると、葵の背すじをぞっと寒気に似たものが走るのだった。……ひとつ疑惑をもちだすと、つぎつぎと新しい疑惑がわき起って、葵のこころを責めたてるのである。
〈たぶん、と、葵はかんがえる。……結婚生活による急激な生理的変化が、こんなふうにあたしを神経過敏にしてるのであろう。……あとで考えると、なにもかにも、みなとるにたらない心配だったということになるのかも知れない……〉
葵はすこし息苦しくなり、掌に雨をうけてそれを額にあてた。
隣りの部屋で劇しく水の流れる音がし、まもなく生々と血のいろに頬を染めた久我が浴場から出てきた。おどけたような顔をしながら、
「……そんなところでなにを考えてる。……郷愁かね」
と、いった。葵はつとめて元気な声で、
「反対よ。……汽笛の音をきいてたら、どこか遠いところへ行きたくなってんの」
久我は葵のそばへ椅子をひいてきて掛けながら、
「……(風には竜眼の香り、雲にはペタコのこえ、酷熱のいいようなき楽しさ)……僕はもういちど亜熱帯で暮したい。僕の感情はあの空気に触れると、どういうものか、溌剌と昂揚してくるんだね。健康にさえなる。……上海はつまらないが、せめてそこまででもよかったのに。……君には気の毒なことをした。期待だけさせて……」
葵はとりなすような調子で、いった。
「上海も台湾もきらいよ。……この花のなかでじっとしてるほうが、あたし楽しいの」
久我は葵の顔を眺めながら、
「そんなこともあるまい。……君はこのごろお上手をいうよ。……なぜだろう」
思わず眼をふせて、
「……でも、これがあたしの自然よ」
「いや、そうじゃない。君が変化を見せだしたのは、この二三日来だよ。……それに葵、君はなぜそんなに眼を伏せる?」
あわてて顔をあげると、葵は、
「なぜ? あたし、なにしたん?」
「……君はこの二三日なにか考えてるね。……どんなことを考えているか、だいたい僕にはわかってるさ。……(天井をながめながら)たとえば、君はこんな風にかんがえる。……僕の行動が警察官にふさわしくない、なんてね」
度を失って、葵は口ごもった。
「……そんな」
「うそじゃない。そう考えるほうが至当なんだ。さもなけりゃ薄情さ。……君が疑問に悩まされているのを、だまって見すごしているのは、友人としても亭主としてもあまりほめた態度じゃない。……しかし、われわれの職業にはひとつの倫理的な掟がある。……黙秘すべきものを守る。……責任感とか義務とか、そんな観念的なものでなくて、もっと高い……たとえば良心というような。……だから、これを冒すと非常にこころが痛むんだね。……古風だと思うかも知れないが、僕がそういう掟に誓っている以上、君もやはりそれを認めてくれなくてはいけない。……僕の行動をいちいち君にうち明けなくとも、まさか愛情の点で、どうのこうのと考えやしまい……」
「よくわかってますわ。……いままでだって、お仕事のことをおたずねしたおぼえはなくてよ」
久我は微笑しながら、
「そうさ。君は質問しない。……だけど、君の眼はいつもききたがっている」
葵はすこし赧くなって、
「悪い眼ね。……これから気をつけますわ」
「それはそうとして、すこし釈明しておくかな(葵の顔を見ながら)……六月一日に大阪で起った銀行襲撃事件ってのを知ってるかね?」
「えッ、それが?」
「それが、無政府共産党の仕業だったんだね。(それから、眼をつぶりながら)その、共犯の一人がすぐま近にいる」
「ええ、それで?」
「あとは言えないのだから訊かないでくれ。……要するに、そういうわけだ、想像にまかせる」
ボーイが名刺を持ってはいってきた。葵はほとんど本能的に立ちあがって名刺を受けとると、その名の上へす早い一瞥をくれた。名刺には厳《いかめ》しい四号活字で、
〈兵庫県警察部特別高等課 山瀬順太郎〉
と刷ってあった。
久我は名刺を見ると、急に顔をひきしめて、そのひとに階下の控室ですこし待っていてくれるように、と、ボーイにいうと、手早く服を着換えはじめた。
葵のこころに明るい陽のひかりがさしこんできた。しらじらとした部屋の趣も、どんよりとした空のいろも、さっきほどわびしくは思われなくなった。
久我は葵を絲満の加害者だと信じているわけでも、彼が身分を偽っていたのでもなかった。すこし厳格すぎる警察官のひとりに過ぎなかったのである。葵にはすこし放埓にも見えた彼は、じっと銀行ギャング事件の犯人をつかまえるために、目に見えぬ活動をつづけていたのだった。
疑惑のない心の状態とはこんなにも快活なものであろうか。……葵は紗のカーテンをいっぱいにおしあけると、晴ればれとした声で唄いだしてしまった。
雨雲が破れて、そのあいだに新月が黄色く光っていた。久我は、栄町通りでタキシを拾うと、すこしドライブをしたいのだから、どこでもかまわず走ってくれ、と運転手に命じた。自動車はかなり速いスピードで、阪神国道のほうへ走りはじめた。自動車が走りだすと、陽やけした、軍人のような厳い顔をほころばせながら、山瀬が、いった。
「……お目でとう。結婚したそうだね。……それで、お嫁さんはどんなひとか」
「美人だよ。……だが、内面的にすこし暗いところがある。……なにかそういう風にさせるものが過去にあったのだろう。……要するに薄命的な性格なんだね。どうも、そんなものを感じさせる」
「なるほど。……だが、敏腕だったね。逢ってから二十日位で結婚したんだそうじゃないか」
「いや、十五日だよ」
「それはまた素ばやかったな。どんな戦術を用いたんだ」
「逆撃さ」
「それならいつも賛成だ。……われわれの側の戦術だからな。それで、捜査区域はいまどんな風になってるか」
「要するに、……敦賀を頂点にした三角形の内部だ」
「それで、交通哨は?」
「全部に配置している」
「上海への道は?」
「まず、絶対に駄目だ」
「青島は?」
「それも駄目だ。どの通路もみな閉塞している。どんなことをしても逃しっこはない。それで君のほうはどうだった?」
「野外勤務さ。……今日まで白浜温泉にいた」
「それで、これからの作戦は?」
「こんな風に関西へ陣地をしいたら、こんどは東京のほうが手不足だろう。……ひとつ、東京へひきあげるか」
「それがいいだろう。……では、僕も今晩帰還しよう。……それで、東京へ行ってからの行動は?」
「独立射撃さ」
「携帯糧は?」
「いまのところ、大丈夫だ。……(そして、煙草に火をつけると)それはそうと、君は面白い事件に関係したそうだな。絲満事件か。なかなか面白い装飾がついてるじゃないか」
「あの装飾的な部分は面白いのじゃなくて、もっとも危険な部分なんだ。……四人の遺産相続者のなかに乾という老人がいるがね、僕の睨んだところでは、これがいちばん闇黒なんだ。(と、いうと、なんともつかぬ微笑をうかべながら)それから、……その葵という、僕の、……ま、これについてはいずれゆっくり話すが、僕はちょっと手をつけた。だがね、やはり探偵小説は僕の手に合わない。結局得るところはなにもなかった。それで、僕はこれからすぐ……十時二十分で発つが君は?」
「僕はあすの十一時十八分」
山瀬のほうへ手をさし出しながら、久我がいった。
「それでは、僕はここでおりる。もう時間がないから、この辺からちょっとホテルへ電話をかけて仕度をさせておくつもりなんだ」
ちょうど尼ヶ崎のちかくだった。
山瀬は久我の手を握りかえしながら、
「じゃ、また東京で」
「どうか、お大事に」落着いた口調で、山瀬がこたえた。
「大丈夫だ。どんなことでもしてやる。解除の時を待てばいいだけのことだから……じゃ……」
久我は片手をあげて山瀬のタキシに挨拶すると、停留場前の明るい喫茶店へはいっていった。いりちがいに、なかから若い娘がひとり出てきた。窪んだ眼、高い鼻、……典型的なこの南島人の顔は、たしかにどこかで見たことがある。
ようやく思いだした。はじめて〈シネラリヤ〉へ葵をたずねていったとき、そばへよってきて、踊ってちょうだい、といった、あの鮭色のソワレを着た娘だ。それにしても、もうこんなとこまで流れてきているのか。
久我は珈琲を注文すると、すぐ立ちあがって電話室へ入って行った。
電話がかかってきたときは、葵はちょうど風呂からあがったばかりのところだった。用事はほとんどひと言ですんだ。が、受話器をもとへもどすと、葵の顔は突然蒼ざめてしまった。
葵がいまきいた声は、まぎれもなく、最初葵に遺産相続の通知をした〈あの女〉の声だった。葵のこころには、また雲のように疑惑がわき起ってきた。しかし……
〈しかし、……そんなことがあろうはずはない。と、かんがえる。……たったいちどだけきいた(あの女)の声を記憶している筈はない。それなのに、どうして久我の声と似ているなどと思うのだろう。たしかにこれは神経衰弱なのにちがいない〉
それにしても、理窟ではない。久我の声は〈あの女〉の声だ。……葵は立ちあがって、鞄へ入れるために久我の服をそろえはじめる。なに気なくそれを振った拍子に、白い封筒がひとつヒラリと床に落ちた。……差出人の名前がない。手がふるえた。手紙にはこう書いてあった。
〈雨田葵君は、絲満が殺害された夜の一時頃、非常梯子をつたって、ひそかに戸外へ抜けだしているという事実があります。これはどういうことを意味するか知りませんが、こういうことを承知していられるのもお便利と思い、ちょっとご注意までに申上げました。一友人より〉
葵は床の上へ坐りこむと両手で顔を蔽った。
あの晩、非常梯子をつたって出て行ったのは葵ではなかった。葵の母とも姉ともいうべきむかしの家庭教師、志岐よしえである。六月一日の銀行ギャング事件の迸《そばづえ》を恐れて東京へ逃避し、三日のあいだ葵の部屋に潜伏していた。
葵にはそういう思想運動には同情も興味もない。ただよしえへの愛情のためにしたことだったが、かりにこれを久我に告白したとしても、その通りに信じてもらえるであろうか。また、たとえ、久我からどのように考えられようとも、もうしばらく、これを告白するわけにはゆかない。よしえの信頼だけは裏切りたくないのだ。
それにしてもこんな陰険な振舞をするのは誰だろう。……ふと、かんがえついた。西貝。そういえば、披露式の夜、葵にたいするそれとない無礼な態度、人殺しといわんばかりのあてこすりも、いまにしてみればその意味がわかるのである。
葵は床の上へ長く寝て眼をとじた。
だれか、扉をノックする。
7
神戸から帰ってくると、久我と葵は新聞記者の那須の紹介で、淀橋の浄水場裏にある〈フレンド荘〉という安アパートへひき移った。派手すぎる久我のやり方に不安を感じていたので相応にひきしめて暮すことは葵としてはむしろ賛成だったが、それにしても、このアパートはすこしひどすぎた。
うす暗い路地の奥に、悪く凝った色電気の軒灯などをつけ、まるで安手のチャブ屋のような見かけの家だった。壁には縦横に亀裂がはいり、家具はどれもこれもぞっとするようないやらしい汚点をつけていた。路地の片側はトタン塀で、いち日中そこから劇しい照りかえしがきた。
このアパートは、いわゆる源氏宿のひとつで、百貨店の売子やダンサーや女給などを、うまく足どめしてあるのはいうまでもないが、猶そのほか、実直な薄給のサラリーマンを驚くほど安い間代で止宿させていた。これは警察の注意や近所の評判をそらすためで、それら真面目な連中も、うすうすはこの事情を知っているが、無料にちかい
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