手を見つめながら、西貝がいった。
「第二係? ……そ、そんな馬鹿なことはないだろう」
西貝をのこして、みなが、がやがや言いながら出ていった。
久我が、まず先にやってきた。みなの来るまえに、すこしでも葵と二人きりで、話したかったのだ。広間のまんなかの卓について水を貰った。なま温い水だった。
広間には、むやみに人がつまっていて、みな申し合せたようにジョッキをひかえていた。大きな扇風器が、いらだたしく天井で羽搏いていた。
葵がやってきた。富士絹のブルウゼに薄羅紗《うすラシャ》のスカートをつけ……まじめな百貨店の売子のように、さっぱりと地味ないでたちだった。駆けつけるように寄ってきて、久我のとなりへ坐ると、苦しそうに息をきった。
「はあ、はあ、いってますね、どうしたの」
ふ、ふ、と笑うばかりで、返事しなかった。
「お腹は明けてあるでしょうね」
子供のように、いくどもうなずいた。
広間の入口のところで、西貝と乾がうろうろしている。葵がそのほうへ両手をあげて、それを手旗のように振った。
二人は、遠くから、やあ、やあ、いいながら近づいてきた。乾は黒い上衣を着、その下へ固苦しく白チョッキをつけていた。扇子で手首へ風を入れながら、
「苛酷なる司直の手より脱免し、四士ここに無事再会。こうして一杯のめるというのは、まずまず祝着のいたり。(と、べらべら喋ってから、葵のほうへ短かい顎をつきだし)……ねえ、葵嬢。なにかと、ずいぶんうるさかったでしょう。いや、お察ししますよ。こんどは、どうもあなたがいちばん分が悪かった。美しく生れると、とかく損をするて……」
西貝は、露骨にいやな顔をして、
「警察のはなしはよしましょう。なにはともかく、とりあえず喉を湿めそうじゃないか。ちぇっ、誰も寄って来やがらない。(劇しく卓を叩きながら)おい、給仕! 給仕はみな、死に絶えたのか」
と、叫んだ。乾は三人の顔を見まわしながら、
「……ときに、今夕の散財は、どなたのお受持でございますか。……いや、それとも? ……こういうことは、予めはっきりして置くほうがいいので……」
久我が、こたえた。微笑しながら、
「失礼ですが、今日は私にやらせていただきます。……東京に馴れぬので、こんな殺風景なところを選びましたが……」
乾は、それは、それは、と、卑しい笑いをうかべながら、
「このたびは、じっさい不思議なご縁でした。……しかしながら、こういう結着になりますなら、不幸、かならずしも不幸ではない。なにとぞ、今後ともご別懇に願いましょう。……殊に、こういうお催しは将来もたびたびやって頂きたいもんで……。では、ひとつ、寛ぎますかな」
と、いうと、上衣をぬいで、ワイシャツの袖をまくりあげた。葵はうつむいて、くっくっ、と笑いだした。笑いがとまらない風だった。
乾は、いっこう意に介せぬようで、うるさく、ピチャ、ピチャと舌鼓をうちながら、
「……諸氏の顔を見るにつけ、思いだされるのは、遺産相続の件ですて。……あたしはね、最近、あれこれと考えあわせて絲満氏さえ殺されなければ、かならず、いくばくかの遺産を手にいれていたろう、と思って、絲満氏の下手人が憎くて憎くてならんのです」
「面白いですね。それはどういうんですか」
と、まじめに、久我が、たずねた。西貝も葵も、フォークを休めて顔をあげた。
「あの遺産相続の通知は、洒落でも冗談でもない。正真正銘のことだったのです。……告知人は、すなわち絲満南風太郎そのひとだったんで。……あの朝、五人を自分の店へ招んで、それぞれ財産を分与するつもりだった。……思うに、そのひとは、癌かなにか病んで、みずから余命いくばくもないことを知っていた。しかも、手紙の文面から察すると、病態はすこぶる険悪だったのですな」
西貝がふきだした。
「……乾老。あんたも新聞を読んだろうが、絲満って男は、古今未曽有のあかにし[#「あかにし」に傍点]だったんですぜ。……その男が、どこの馬の骨かわからないやつに、自分の財産を……」
しずかに、乾がこたえる。
「たぶん、そう言われるだろうと思っていました。……あたしも新聞を読みました。新聞で絲満氏の性行を知るにおよんで、いよいよ、あたしの想像がまちがっていないことがわかったのです。……西貝氏、あなたがそういわれるのは、吝嗇漢というものの心情を解していないからです。(ひと口のむと、またコップをおいて)正直なところ、かくいうあたしも吝嗇漢です。されば、あたしには、絲満氏の気持がじつによくわかる。いったい、吝嗇漢というものは、そういう絶対境に追いこまれると、得てして非常に飛びはなれたことをやりだす。……絶体絶命だ、どうしても天命には勝てん、なんていうことになると、いままで、圧しつけに圧しつけていたものが、一ぺんに爆発する。……唯物凝固の世界から、一躍にして、虚にして無なる境地に直入する。あかにし[#「あかにし」に傍点]であればあるほど、反動も大きければ爆発も異常だ。……ご承知の通り、あの前夜、絲満氏は見知らぬ女に大盤振舞をし、自分もしたたかに飲んだといいますが、絲満氏を知っている連中の話では、そんなことは何十年来なかったことだそうです。……これなどはじつに、その辺の消息を雄弁に物語っているじゃありませんか。……どうです。それでもまだご異存がありますか。……(急に調子をかえて)だからさ、どの位あったか知らないが、当然手にはいっていたものを、むざむざ横あいからひっ攫われたかと思うと、あたしあそれが残念で、いても立ってもいられないんだ。……(卓の上へ両手をついて、三人のほうへ身体をのりだすと)あたしあ、巳年生れでね。これで、嫉妬心もつよければ、また、ずいぶん執念も深い性なんだから、こんな目に逢わされてだまって引っこんでるわけはない。……あたしの手で、いまにきっと、そいつをとっちめてやるつもりなんだ。……なアに、どうせ長いあとのこっちゃアありゃしない。……いまに見てろい、どんな目を見るか! ぬすっとめ!」
そういうと、急にぐったりと、卓の上へ頬杖をついて、うわごとのように、なにかぶつぶつ[#「ぶつぶつ」に傍点]つぶやきはじめた。酔態としても、これはかなり異様なものだった。
西貝が、久我に、ささやいた。
「恐ろしい精神状態だ」
久我は、ささやきかえす。
「むしろ、奇抜ですね」
西貝がいった。
「……乾老。……性格のちがいというのはえらいものだね。……小生は寅年生れだが、遺産のことなんか、とうに忘れていたよ」
「忘れるのは、あんたの勝手だ」
乾が、うなるように言いかえした。
「ま、立腹したもうな。……しかしながら、絲満の加害者が、あんたの血相を見たら、たいてい竦《すく》みあがるだろう。なにしろ、凄かったぜ」
乾は、ふふん、とせせら笑っただけで相手にならなかった。
久我がにやにや笑いながら、
「同感ですね。……私はついさっき取調室から出てきたばかりですが、帰りがけに、司法主任がこういってました。……だいぶご機嫌でね、……君、加害者はやっぱり、あの朝〈那覇〉へきた五人のうちの一人なんだ。見てたまえ、誰れだか明日になればわかるから、って……。(いかにも面白そうに、三人の顔をながめながら)……して見ると、加害者はこの一座のなかに、いるのかも知れないですね。……私かも知れない。いや、殊によったら、乾老それ自身かも……」
久我が、まだ言い終らないうちに、乾が、すっくと立ちあがった。いまにも投げつけるように、ジョッキの把手を握りしめ、眼をくゎっと見ひらいて、久我を睨みつけながら、
「なんだと! ……もう一ぺんいってみろ、畜生!」
と叫んだ。洲崎署の廊下で見た、あの悪尉の面になっていた。
西貝は、これさ、これさと芝居がかりに手をふりながら、乾に、
「大きな声はよしたまえ。……みなきいてるじゃないか」
乾は、久我を睨みすえて、もう一度、
「畜生!」と叫ぶと、急に、崩れるように椅子の中へ落ちこみ、両手で顔を蔽って、啜り泣きはじめた。しゃくりあげて泣くのだった。
西貝は、手がつけられない、という風に、頭を掻きながら、
「ちぇっ、泣き出しちゃいかんなあ。……(卓ごしに手をのばして、乾の肩を叩きながら)乾老……。これさ、乾老。君の酒もあまりよくないねえ。……泣くほどのことあ、ありゃしない、冗談じゃないか。……(そして、久我のほうへ片眼をつぶって見せた)久我氏、貴殿もすこし慎しまっせえ。老人にからかうなんざ、よくないよ」
久我は、てれくさそうに笑いながら、乾に、
「かんべんしてください。冗談なんですから」
乾は、ようやく顔をあげると、涙で濡れた眼で、うらめしそうに久我を見ながら、
「いけないよ。冗談にしても、あんなことをいうのは。……とうとうあたしを、泣かせてしまって……」
そして、掌で眼を拭った。もう泣いていなかった。
久我が、いった。
「つい、なんでもなく言ったんですが……。かんべんしてください。……いまのは、私の冗談ですが、……でも、司法主任がそういったというのは嘘じゃありません。……こんなことを言ったら、また気を悪くなさるかも知れませんが、……現に、あそこに、……(そう言いながら、卓の上へ低く顔を伏せると、ささやくような声で、葵にいった)葵さん、そのまま、しずかに顔をあげてください。(葵は顔をあげて怯えるような眼つきをした)……いや、なにも恐いことじゃありません。……奥から三番目の柱の横の……椰子の鉢植のそばの卓に、男が一人坐ってるでしょう。……見えましたか? ……(葵がうなずいた)そう。……あれは警察の人間です」
葵は眉をひそめながら、ほとんどききとれぬような声で、いった。
「……もう、すんだと思ってたのに。……いややわ」
久我が、つづけた。
「あの男を、私は洲崎署の刑事室で見たんです、二度ばかり。……(西貝と乾に)さっきお二人が、あの男の傍をとおりぬけようとすると、あの男は、お二人のほうを顎でしゃくって、誰れかに合図してました」
西貝が、高っ調子でいった。
「じゃ、たぶん小生の知っとるやつだろう。……小便しながら面を見てくる。大きなことをいったら、とっちめてやる」
虚勢を張っているようなところもあった。乾は、子供のように手をうち合わせながら、叫んだ。
「そう、そう、……おやんなさい、おやんなさい!」
西貝は、立ちあがると、どすん、どすんと足を踏みしめながら、そのほうへ歩いていった。乾は眼をキラキラ輝やかせながら、熱心にそっちを眺めていた。西貝は、皿のなかへうつむいている男のそばへ近づく。そこで歩調をゆるめて、じろじろと、しつこくその顔を眺め、それから、広間の奥の手洗所へはいって行った。
食事がすむと、西貝と乾は、ひと足さきに帰る、と、いいだした。もう、大ぶいい機嫌で仲よく肩をならべながら出て行った。
しばらくの後、葵は、臆病そうに口をきった。
「送ってちょうだい。……ひとりでは、うち、恐ろし……」
久我は、それに返事せずに、笑いながら、
「さっきの司法主任の話、あれ、出まかせです。乾老が、つまらないことをいつまでも喋言ってるから、ちょっと黙らして見たんです。……これで、なかなかひとが悪いところもあるでしょう。……(すこし真面目な顔になって)葵さん、あなたはもう喚びだされることはありませんから、心配しなくても大丈夫です」
と、いうと、上衣の内ポケットから、金色の紋章のはいった警察手帳をとりだすと、はじめの頁をめくって見せた。〈久我千秋〉と、彼の名が書いてあった。
「安心してください。……私がこう言うんだから……」
そして、やさしく葵の手をとった。
どうしたというのか。……葵は急に蒼ざめて、低く首をたれてしまった。久我の掌のなかで、葵の小さな手が、ぴくぴくと動いた。早くそこから逃げだしたいという風に。
4
事実は小説よりも奇なり、ということは、たしかに有り得る。しかし、それが奇にすぎ、すこし通常の域をこえていると、もう一般からは信じられなくなってしまう。小説の場合と全く同
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