、
「その方は署からのききこみがすこしあるんだ。……はじめはなかなかシラを切ってね。ところがどうして、なかなか、本庁と洲崎署が車懸りになってやってるんです。昨夜は十時から、小松川の川っぷちと洲崎のバア、カフエ、円宿ホテルを一斉に非常臨検をやったんです。……その例のモダン・ガールってのを狩りたてているんだね。もっともその女が直接の加害者だと思っているわけではない。本庁では琉球か朝鮮の人間の犯行だと見当《みこ》んでいるし、洲崎署では区内の前科者の仕業だとにらんでいる。いまのところ意見は二た手に分れているんだがなにしろ、女が一枚のってるんで、非常に事件をややこしくしている。とにかく、その女をつかまえると、もうすこし輪廓がはっきりするはずなんで、警察でもいまのところ、こいつを追及するのに躍気となってるんだね。〈那覇〉のボーイのほうは、いかんせん、すこし低能でね、自分が見た女の印象を申立てることが出来ない。ちょっと上品なすらりと背の高い女だっていうんだが、これだけじゃなんの足しにもなりやしない。……そこで、その晩のいきさつてえのは、次のあさ九時頃、和倉町二丁目の自分の下宿から、店へ出掛ける途中、一二度〈那覇〉へ顔をみせたことのある、山瀬組の小頭ってのに逢って、……昨夜はどうも偉えことだったぜ、という調子で、はじめて女の一件をきいたんだが、その小頭ってのも、ボーイが自分でそう承知しているだけで、ほんとうに山瀬組の一家だかどうだか判ったもんじゃない。このほうも、しきりに追っかけているんだが、いまのところ、まだ消息不明なんだ。……なんでも、ボーイの話では、そのモダン・ガールがふらっとはいってきたのは、ちょうど十時頃で、そのすこし以前から、南風太郎と小頭と二人で、もう始めていたということだった。……(といって、額をなでながら)ああ、酔った、酔った。……空腹へ早駕《さんまい》でのんだら……眼がくらんで来た」
となりの卓で、空になったビール瓶を前にして、さっきからもじもじしていた、二十四五の若い男が、このとき三人の方へ声をかけた。
「ねえ、那須さん。……僕ああの絲満南風太郎ってのを知ってるんです。(と、愛想笑いをしながら)……僕が深川の浜園町に住んでいた頃、よくあそこへ飲みに行ったことがあるんです。……あいつはね、もと毎年カムサッカや択捉《エトロフ》へ出稼ぎに行っていたんですよ。なにしろ、もとは、絲満の漁師ですからね。……それで、そんなことをやってるうちに、北海道の北端の、例の留萠《るもえ》築港の大難工事が始まった。すると、南風太郎は自分の郷里から、二百人あまりの琉球の人間をだまして連れだしてきて、これを道庁の請負の大林組へ、一人八十円パで売り飛ばしたんだそうです。それで南風太郎は、かれこれ二万円ばかりの金を懐中にいれたわけなんですが、一方、売り飛ばされた方は、なにしろ気候が違うのと仕事が荒いので、第二期の突堤工事が出来たときには、二百人のうち生き残ったのは、わずか五七人だけだったそうです。……南風太郎は、そのほか西貢《サイゴン》やシンガポールあたりへ、ひどい女の沈めかたをしているそうだし、……あいつには、ひとのうらみもずいぶんかかっているわけで、僕の想像じゃ、こんどの事件は、必ずしも金だけの目的じゃなかったんじゃないかと思うんですよ。なにしろ、廻《めぐ》る因果の小車で……」
那須は、ドスンと卓を叩いて、
「お、この餓鬼のいうことは気にいった。……サンキュウ、サンキュウ! ……こいつあ、いいツルだ。……感謝する……君、君。まったく感謝する。(立って行って、若い男の首を抱きながら)オイ、……ときに、何か飲め……」
若い男は、待ちかねていたように喉をならしながら、
「え。……じゃ、ビールと貝巻き、を」
「よしきた。……オーイ、ビールと貝巻きだ。束にして持って来いよ」
「こっちは日本盛だ。(と、もうだいぶろれつが廻らなくなった西貝が、だみ声をはりあげた)……オイ、久我千秋……久我千! おめえは高梁酒なんて、藁からとった酒ばかり飲んでいたんだろうが、わが日本の米の酒をのんで見ろ。……ぐっと一杯のんでみろ。……やい、那須一……那須一……、ここにいるこの若いのは、こんな風に化けているが、もとをただせば、タイヤール族なんだぞ。霧社の頭目だぞ。わかったか。那須、飲め……やい、駆出しの名探偵……」
店のなかは、がんがんするような、やかましさだった。だれも相手のいうことなんかきいていない。めいめい自分勝手に、出放題なことを、大声でわめきちらしていた。
二人連れの男が、戸をあけはなしたまま出ていった。そこから、黎明のほの白いひかりと、すずしい朝風がはいってきた。三人はもうものを言わなかった。ひどい眠気が襲ってきた。西貝は財布をだして、いった。
「もう帰ろう……」
「……僕、……僕にやらしてくれ、……いくら……」
がくがく、と卓のほうへのめりながら、久我はポケットへ手をつっこんで、裸の紙幣をつかみだした。
丁度その頃、雨田葵は、文園アパートの貧しい寝床のなかで眼をさます。
葵は苦しい夢を見ていた。どんな夢であったか、思いだすことは出来なかったが、多分それは、自分の過去の、酸苦なある一日の出来ごとらしかった。……彼女の過去には、ここではふれぬことにしよう。
……彼女の過去は陰鬱な雲にとざされ、嗟嘆の声にみちみちてはいたが、しかし、彼女がはじめて久我千秋に逢ったときは、東京でのある悪夢のような一日を除くほかは、やや幸福であった(と思える)十二三歳の頃の彼女と、すこしも変ってはいなかった。
彼女は横顔には、いまもなおその頃の、童女のおもかげをのこし、こころも肉体も、そのころのままに無垢であった。葵の愛嬌のいい、明るい顔つきは、ほとんどすべての男性に好かれた。〈シネラリヤ〉で働くようになってからも、すでに五六人の男友が出来た。そのうちの三人は結婚を申込んだ。(その中にはひとりの公使さえいたのである)しかし、彼女はそのいずれをも愛してはいなかった。(彼女の二十三年を通じて、彼女は、嘗つてなにびとも愛しはしなかった)
葵が〈那覇〉で、はじめて久我のとなりに坐ったとき、彼女はまず、端正な久我の美しさに狼狽せずにはいられなかった。つづいて久我に話しかけられたとき、とりのぼせた彼女の耳は、なにを語られているのか、ほとんど理解することが出来なかった。
彼女の知覚がようやく恢復したとき、こんどは、彼女は阿呆のようになっていた。……正確に言えば、彼女は臆病になり、粗野になり、相手の気にいりそうなことすらひとつ言えない、もの悲しい、不器用な娘になり切っていた。
久我がはじめて〈シネラリヤ〉を訪れたとき、はじめ、葵には現実だとはどうしても信じられなかった。それほど思いがけなかったのであった。この喜びは彼女を溺らせて、狂人のようにしてしまうほどであった。
久我がアパートまで葵をおくり届けたいと申出でたとき、彼女は不覚にも涙を流したのだった。
葵は自分の部屋へはいると、いそいで着物をぬいで、スキーヤーのように白い寝床のスロープへ辷りこんだ。そして(あたしは、もうひとりではない)と、うかされたようにいくどもつぶやいた。いま、葵の部屋の薄いカアテンを通して、朝の光がしずかにほおえみかける。
彼女はまだ四時位しか眠っていなかったが、もう充分に寝足りたような気持ちだった。身体のうちが爽やかで、頭のなかを風が吹きとおるように思われた。
葵は、右の腕を頭の下に敷いて、夕方までの時間をどこで暮らそうかと考えた。空には一片の雲もない。青い初夏の朝空。葵は幸福にたえかねて眼をとじた。
だれかが扉をたたく。多分、アパートの差配の娘だろう。それにしても、こんなに早くどうしたというのか……
はいってきたのは、差配の娘ではなかった。
揃いのように、灰色のセルの背広を着た二人の紳士であった。もう一人のほうは厳めしい口髭を貯えていた。
慇懃にスマートに、出来るだけ気軽に話そうとしながら、
「……お手間はとらせませんから、ちょっと、洲崎署までいっしょに行ってください。たいしたこっちゃないんですよ。……ちょっとね。あなたも、とんだかかりあいで、ほんとにお気の毒です」
葵は両手で顔を蔽うと、後へぐったりからだを倒してしまった。
3
人影のない長い廊下には、警察署特有の甘い尿の臭が漂っていた。喰い荒した丼や箱弁の殻がいくつも投げだされていて、そのうえを蠅が飛びまわっていた。遠くで、劇しく撃ちあう竹刀の音がしていた。〈司法主任〉という標札のかかった扉があいて、分厚な書類の綴込をかかえた丸腰の巡査のあとから、葵がそろそろと出てきて、窓ぎわのベンチへ腰をおろした。
面《おも》やつれがして、まるで違うひとのように見えた。服は寝皺でよれよれになり、背中に大きな汗の汚点をつくっていた。首すじや手の甲はいちめんに、南京虫にやられた、ぞっとするような赤い斑点で蔽われていた。
巡査がつぎの扉へきえると、葵はぼんやりした眼つきで窓のそとを眺めながら、無意識のようにぽりぽりと手の甲を掻きはじめた。
窓のそとは空地になっていて、烈しい陽ざしの下で、砂利が白くきらめいていた。
葵は急に眼をとじた。瞼のあいだから涙が流れだしてきた。泣いているのではない。烈しい光が睡眠不足の眼を刺激したのだ。
葵は三日目にようやく留置をとかれた。極度の疲労と緊張のあとの麻痺状態が頭を無感覚にして、なにも考えることが出来なかった。なんのためにここへ坐りこんだか、それさえもあまり明白ではなかった。ただ、むやみに痒かった。
葵は辛辣な取調をうけた。参考人としてではなく、殺人嫌疑で訊問されていたのだった。警察では殺人の前夜に〈那覇〉へ現れた女も、古田子之作へ遺産相続通知の電話をかけた女も葵だときめてかかっているのだった。
〈那覇〉の男が、どうもこの女ではありません、と証言し、葵にもたしかな不在証明があったのでこのほうの嫌疑だけはまぬかれたが、電話のほうは、古田が、こんなによく響く声ではなかった、と、明瞭に申し立てているのに、どうしても納得しないのだった。最後には、二人で共謀してやったんだろうなどと言い出した。こうなれば、弁明するだけ無駄のようなものだった。
殊に、葵には、過去の経歴のうちに、明白にしたくない部分があったので、いきおい、答弁は曖昧にならざるを得なかった。係官は、そこへのしかかってきた。
葵は、電話をかけたのは私ではない、というほか、どう言う術も知らなかった。しまいには、言うことがなくなって黙ってしまう。すると、いままで温顔をもって接していた司法主任は、急に眼をいからせ、顔じゅうを口にして、なめるな、この女《あま》と、大喝するのだった。
二日目の昼には、強制的に検黴された。もし病毒でももっていたら、その点で有無をいわせないつもりらしかった。警察医が指にゴムのサックをはめて、葵の肉体を調べた。
結果は思いのほかよかった。警察医は妙な笑いかたをしながら、君、あいつは処女《ユングフラウ》だぜ、といった。これが係官の心証をよくした。
できるなら、葵はなにもかも告白して、ここから逃げだしたいと思った。こころがなげやりで、この世の幸福などは、すっかりあきらめていた今迄の葵ならば、たぶん、そうしたであろう。しかしいまは違う。久我の優しい眼《まな》ざしを透して、その奥に、おぼろげながら、幸福な自分の未来を見いだしているのだった。二十三年の半生を通じて、いま、ようやく葵は幸福になろうとしている。この夢だけは失いたくないのだった。
検黴室の鉄の寝台にねかされたとき、葵は憤りと悲しみで心がさし貫かれるような気がした。このときばかりは、さすがになにもかも告白しようと思った。それさえすれば、この恥辱は受けないですむのだ。だが、それをいえば、葵はもう終生久我に逢うことが出来ないであろう。久我への劇しい愛情が、この屈辱に甘んじさせた。涙があふれてきて、止めようがなかった。
乏しい木立の梢をわたって、涼しい
前へ
次へ
全19ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング