を獲得するために銀行襲撃を計画していた。久我は大阪の事情に通じていたので、勢い企画に参加することになった。が、これとても明確な意志があったわけではない。むしろ、懶惰のゆえである。
 この計画は失敗し、久我は東京へ逃げた。上海で買った偽造の警察手帳が、この逃走に非常な便利をあたえた。東京には思いがけない二つの事件が彼を待ちかまえていた。殺人と恋愛と……。そして、彼は結婚した。
 働くな、それは精神の自由をころす。久我にとっては、無為は強烈な生活意志の対象であった。彼がひとりの間は、なるほどそれは彼の精神を開放し、自在に自由美の園を逍遙させてくれたが、結婚してからは、せっかくのアフォリズムも妻を苦しめるだけにしか役立たなくなってしまった。現に彼女は、彼の身勝手な主張《テーゼ》のおかげで、二人分の労苦を背負って喘いでいるのである。
 ときどきこの自覚が、深いところに昏睡している彼のたましいを揺りうごかす。すると久我は、そのたびにむっくりはね起きて、こうしてもいられないと呟き、あてもなく、セカセカと町を歩きまわるのだった。生活のことばかりではない。どういう事情があったのか、葵は絲満を殺している。なんとかして逃がさなければならないのだ。
 二月まえに葵をつれて神戸へ行ったのは、そこで石原らとおちあって、いっしょに上海へ逃走するつもりだったのである。ところが、久我が神戸へ着く五時間前に、石原が名古屋で捕まり、仲間といっしょに上海へ逃げるつもりだったと自供したので、支那へ行く道は全部閉鎖されてしまった。そのうちに神戸にいることも危険になったので、また東京へ戻ってきた。
 ひところは、警視庁の捜査一課でも全く匙をなげてしまい、絲満事件はこれで永久に迷宮入りするかに見えたが、最近になって情勢はにわかに険悪になってきた。検挙の手はもう葵の襟元にせまっている。一刻も躊躇していられない場合になった。葵を逃がすためには金がいるのだが、まるっきりその方策がつかないのである。
 久我は焦だってきて、夕空を仰いで思わず呻き声をあげた。金を手にいれるためなら、どんな事でもしかねない気持になってきた。
 久我の肩にだれか、そっと手をおいた。
 反射的に衣嚢の拳銃に手をかけて、キッとそのほうへふりむいた。
 日本人ばなれのした、十八九の眼の窪んだ娘が、ラグラン袖のブラウスを秋風にふくらませ、鶴のように片足で立っていた。久我の顔を見ると、小馬鹿にしたように片眼をつぶって、
「あたし、毎日あなたのあとを尾行《つけ》ていたのよ。……知ってた?」
 久我はきびしく眉をよせながら娘の顔を見つめた。〈シネラリヤ〉へはじめて葵をたずねて行った晩、しきりに久我にからみついた鮭色のソワレだ。それから、尼ヶ崎でいちど見たことがある。……たしか、鶴《チル》とかいった娘だ。
 鶴はいかにもうれしくてたまらないという風に笑いだしながら、
「……ほらね、知らなかったんでしょう。うれしいわ。……ふむ、でも、こんなところに突っ立ってないで歩きだしましょうよ。……あたし、すこし話があるのよ。(といって久我の手をとると、勝手なほうへずんずん歩きだした)あたし、あなたのしたことなんでも知っててよ」
「なんで、僕のあとなどついて歩く?」
 鶴はちょっと眼を伏せて、
「それは言えないの」
「じゃ、神戸のときも僕をつけてたの?」
「そうよ。……でも、そんなことどうだっていいじゃないの。……あなた、さっきから三度もたべもの屋の窓をのぞきこんだわね。あなたは、たべものにむずかしいひとなのね」
 あまり見当ちがいなので、笑いださずにはいられなかった。
「僕は金がなくて、昨日からなにも喰べていないんだよ」
 鶴は立ちどまって眼をまるくした。急によろめくほど久我の腕をひっぱると、
「喰べましょう。……あたしお金もってる」
「ありがたいが、……君に喰べさせてもらうわけはないさ」
「いや、借がある。……〈シネラリヤ〉にいたとき、チップくれたわね。そのつぎに来たとき、またくれたわね。……それを返すのよ。……さあ、歩けったら、歩かないと、……蹴っとばすから!」
 むやみに引っぱって、〈北京〉という中華飯店へつれこんだ。
 夕食時にすこし間があるので、店のなかには人影がなく、紫檀の食飯卓《チャプントオ》の上でひっそりと白菊が薫っていた。
 鶴はあれこれと食物の世話をやき、たくさん、たくさん食べてちょうだい、と、まるで祷るように、いくども幾度もくりかえすのだった。久我が食べはじめると、こんどは両手で顎を支えながら、その顔を穴のあくほど見つめていた。やがて、藪から棒にいった。
「東京からどこかへ行ってしまってちょうだい。どこでもいいから、早く逃げてちょうだい。お願いだから」
 箸をやすめると、すこし顔をひきしめて、
「なぜ逃げなきゃならないの?」
「あとでわかるから……穂高はだめ。上海か青島か、なるだけ遠いところへ……」
「穂高? どうしてそんな事を……」
「だから、毎日あとを尾行《つけ》てるって言ってるじゃないの。……(手提のなかから白い分厚な封筒をとりだすと、それを久我のほうへ押しやって)このなかに三百円はいってるんだ。だから、これを……」
 それをおし戻して、
「こんな世話になるわけはない」
「でも、借りるあてがないのでしょう」
「大丈夫……すぐ、手にはいる」
「じゃ、逃げてくれる?」
「逃げるなんてことはしない。少し旅行したくなっただけだ」
「いつ?」
「あす……、はやければ今晩」
 ながい溜息をついて、
「安心したわ。……(そして久我の手を自分の胸へおしつけると)じゃ、どうぞ、いつまでもいつまでもお丈夫でね」
 唇の端をこまかく震わせながら妙な顔をしていたが、突然、久我の指をきつく噛むと、やい、馬鹿やい、といった。
 うるんだような眼をしていた。

「おい!」
 久我が低い声で呼ぶと、草のなかから山瀬が、むっくりと起きあがった。明治製菓の北裏の、この辺で射的場といっている原っぱだった。久我が草の上へ紙づつみをひろげた。そのなかに葡萄パンが五つはいっていた。山瀬はそれをとりあげると、あわてたように口へ押しこんだ。削痩《さくそう》した頬に夕陽があたって、動くたびにそこが鉛色に光った。
「うまい……」
 久我の顔を見あげて微笑すると、ピクピク肩をふるわせながら、またうつ向いていっしんに喰べつづけた。ときどきグッと喉をつまらせては苦しそうに涙を流した。野良犬がものを喰べているようだった。この容貌魁偉な大男がこんなようすをしているのは、なにか一種のはかなさがあった。
 久我が、いった。
「……ずいぶん、しゃべった。じゃ、これで別れるか。……すこしきいてもらいたい話があるんだが、そんなことをしてる時間もないな」
 山瀬は口を動かしながら、
「かまやせん。もう当分逢えないかも知れないから、お互いに、言いたいことを言おう。心残りのないように。……それはどんな事か」
 久我は苦笑して、
「下らないと思うだろうが、実はあの晩、僕は女装して〈那覇〉へ出かけているんだ」
「つまり応化《アタプテーション》だな。……どうして、なかなか適切だよ」
「まあ、そう言うな。はじめからそんな気でやったわけじゃないんだ。その晩ホテルに舞踏会《パーティ》があってね、なるたけ仮装してくれというから、ホテルの婢《マグド》に女の服を借りてもらって、それを着て会へ出たんだ。十二時ちかくに部屋へ帰ろうと思って、帳場《コントール》で久我の部屋の鍵をというと、番頭が、久我さんでしたら夕方からずっとお部屋においでになります。ご用でしたらご都合を伺ってみましょうか、というんだ。……なるほど、鍵は僕が持っていた。妙な気がした。むらむらと冒険心が起きてきた。……さっきも言ったようにもう二時間もすれば〈那覇〉というところで、なにか犯罪がおきる。これを予知しているのは〈通知〉の告知人と僕だけだ。不在証明《アリバイ》はこの通り自然発生的に成立している。会は三時頃までやっているはずだからそれ迄に帰ってくればいい。……よし、行ってやれ。その家の前で待っていれば何が起きるかわかるだろう。ひょっとして金でも持って出てきたら、僕の警察手帳にものを言わせて、横合いからそいつを略奪してやるつもりだったんだ。……いや、もうお寝みだろうから、また明日くる、といってホテルを飛びだした。洲崎のおでん屋で二時すぎまで飲んで、それから〈那覇〉へ出かけた。すじ向いの古軌条置場のかげに隠れて待っていたが、いつまでたっても何事もはじまらない、痺《しび》れをきらして、そっと〈那覇〉へはいりこんだ。二階に部屋がある。手さぐりで入ってゆくと、途端になにかにつまずいて転倒した。スイッチをおして見ると、五十位の大男がやられている。……たちまち、僕の状態《シチュエシオン》は非常に危険なものになった。……女装している。胸から手から血だらけだ。間もなく夜が明ける。……それに、あの辺の地理的条件は僕のような脱走兵にとってはほとんど致命的だ。出口を塞がれた完全な袋小路だ。こんな恰好であの島から脱け出すには、たしかに一種の天才がいる。……あと始末を充分にして戸外へ出る。蛤橋のほうへ行こうとすると、果して向うから巡査がやってきた。もう一方の白鷺橋の橋詰には交番がある。……物蔭へはいって、どっかりとあぐらをかいた。すこし、頭を飛躍させるためだ。……いったい、いま僕を危険にしている条件は何んだ。ひとつは僕が血のついた女の着物をきていることで、ひとつは橋詰に交番のある橋を渡らなければならないことだ。……一見、これらの条件は絶対に避けられないように見える。しかし、すこし頭を転回して見ると、危険はそれらの条件にあるのではなくて、どうしても橋を渡らなければならないという観念から離れられないところにあるのだ。服をぬいでそこの溜堀へ沈めた。そろそろと堀を泳ぎ渡って、弁天町の貸船屋の近所へあがった。そこに腐ったような袢纒がかけ流してある。麻裏もある。そいつを引っかけて突っ立っていたらタキシが寄ってきた。ホテルへ帰って見ると、予期したようにみながまだ騒いでいて……」
 山瀬が、むっつりと口をはさんだ。
「しかし、そんなことを俺がきいても仕様がないな。……いったい、君が話したいということはなんだ」
 ちょっと間をおいて、
「じつは絲満をやったのは僕の妻《フラウ》なんだ」
 山瀬は、まるで聞いていなかったように、冷然と空を眺めていた。久我はすこし早口になって、
「つぎの朝、巡査といっしょに二階へ上って行った。ふと見ると、血だまりのなかに女の服の釦が落ちている。しまったと思った。隙を見て拾ってポケットへ入れた。しかし、しらべて見ると、僕の服の地色とちがう。……葵の服にそれとよく似た色のものがある。そっとあてがって見たら、まぎれもなくその服から落ちたものだということがわかった。しかも葵はその夜一時頃、非常梯子をつたって自分のアパートから抜けだしているんだ。……現象的に見て、葵がやったと思うほかはないのだ」
「うん、わかった。それで、なにを言うつもりか」
「……衣裳屋へ服を借りに行った女が、いま盛んに追求されている。ホテルの婢《マグド》はまだ何も言ってないらしいが、いずれやり切れなくなって自首するだろう。……僕が捕えられるのはもう時間の問題だ。僕は殺っていない。だからこそ、葵のために僕は捕ってはならないのだ。どんなことがあっても二人で逃げとおすつもりだ。……僕の友人が穂高にいる。そこまで行けば、多少まとまった金が手にはいる。それで小樽までゆく。小樽から青島へ行く貨物船の定期航路があるはずだからそれで青島までゆく。あとはなんとかなるつもりだ」
 山瀬は起きあがって草の上にあぐらをかくと、微笑をうかべながら、
「君がなにを言いたいのか、よく判ったよ。……俺に言わせると、危険なのは君の情況《シチュエシヨン》でなくて君が本気で細君《フラウ》を愛しはじめたことなんだ。君がひとりで逃げようとするなら、それは実に易々たる問題なんだからな。……むかし、虚無《ニヒル》の向う
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