未知の人間に転嫁させようという目的のトリックなのですね。……いうまでもなく、〈通知〉を出した告知人がすなわち絲満を殺した犯人なのですが、そういう場合、その人物は、かならず、その現場へやって来てるものなのです。効果の程度を知っておくことが絶対に必要だからです。……だから、犯人はあの朝〈那覇〉へ集った五人のうちのだれかだと言えるのです」
「犯人が必ずそこに来合しているという……それは当為《ソルレン》です。必ずそうあるべきことでしょう。しかしそれはそれとして、事件を複雑にして捜査の方針を混乱させる目的だと言われましたが、私に言わせれば、このトリックは、反対の効をあげるためにしか役立たぬように思われるのです。混乱させるどころか、犯人はここにいると、自分で知らしてるようなものです。……なぜといえば、そういう場合、犯人がそこへ来合しているだろうということは、だれにしたってすぐ考えられることですからね。……知能的な初犯者ほど、いろいろ手のこんだ方法を考え出すものですが、しかし、どういう場合でも、あらかじめ考案された方法というものは、柔軟性を欠くか、なにかしら過剰なものを持つか、この二つの欠点をまぬかれることが出来ないようです。……細工をしすぎたコップほど脆い、というのとよく似ています。……そのうえ、あまり鋭い頭で考えられたものではない。……那須さん、私はこんな方法を考えだすほど幼稚ではないつもりです。のみならず、私はそんな方法にたよらなくとも、もっと無造作にやってのける有利な条件をもっています。私はつい最近十年ぶりで日本へ帰ってきた。東京には私を見知っている人間は一人もいません。どのようにも大胆に、どんなにも無造作にやってのけることが出来るのです。……こういう便宜をもっている私が、自分がアマチュアであることを知らせ、自分を自ら窮地に追いこむような、そんなうるさい方法を選ぶわけがありません。〈通知〉を出したのが、すなわち犯人だ、という直証法は私も賛成です。そうとすれば、いま言った理由で、私は犯人ではありません」
古田は、あぐらを組みなおすと、那須に、
「じゃ、いよいよあっしがやりますぜ。いいね。(と、念をおすと、久我のほうへ向き直って、叱咤した)うるせえ、もうやめろ。……理窟でごまかそうたって、そういかねえ証拠があるんだぞ。……おい、久我! 巡査に追ったくられて二階から降りるとき、てめえ、ヒョイとかがんで、血溜りのなかからなにか丸いものを拾いあげたな。……たしか釦のようなものだったが、……おい! このほうはどうだ」
……こんどはいくら待っても返事がなかった。久我の眼に苦渋なものがあらわれ、額がうす黒く翳ってきた。
西貝は食卓に頬杖をつきながら、騒々しい声で、
「こりゃ、いよいよドタン場だね。おい、バザロフ君、もう、観念して白状しろよ。それとも格率が違うから、自白なんて形式は認めないのかね」
古田は眼をいからせて、
「野郎、なんとかぬかせ! やい、罪もねえおれをブチこんでおいて、よくもぬけぬけとしていやがったな。……待ってろ! こんどは、おれがしょっ引いて行ってやるから」
顔をあげると、久我が、いった。
「いかにも僕は釦を拾いました。僕をひとごろしと思おうとなんと思おうと、それは諸君の勝手です。……だいたい、話もすんだようだから、僕はこれで失敬します」
上衣を持って立ちあがると、襖をあけて出て行った。
「野郎、逃げるか!」
古田は大声で叫びながら立ちあがった。那須は、待て、待て、おい待て、といいながら古田の肩に躍りかかった。
鱗雲の間から夕陽が細い縞になって、腐ったような水の面にさしかけている。
溜堀のなかには、筏に組んだ材木がいくつも浮かせてあった。三人のルンペンがその上に乗って針金でこしらえた四手網のようなもので堀の底を浚っていた。
岸には大きな角材が山のように積んであって、その高いてっぺんに乾と西貝が腰をかけていた。西貝は、また新しい煙草に火をつけると、ふてくさったようすで、煙を空へふきあげながら、
「……人間万事金の世の中、さ。義理も人情もあるものか、金につくのが当世なんだ。なあ、そうだろう、乾老……」
すこし酔っているらしかった。乾はキラキラ眼を光らせて熱心に堀のほうを眺めながら、うるさそうに、こたえた。
「まあ、そうだな」
西貝は舌なめずりをして、
「気のねえ返事をするなよ。……ときに乾老、この堀から久我のぬいぐるみ[#「ぬいぐるみ」に傍点]があがってきたら、いくら出す。たとえ二十日、ひと月でも、いっしょに飲み分けた友人を売るんだ。無代《ただ》じゃごめんだぜ」
乾が、むっつりとこたえた。
「もし、あがったら十両やる」
西貝は下卑っぽく、ポンと手を打って、
「まけた。……三十両と言いてえところだが、もともとウントネタだ。いさぎよくまけっちまえ。ひとの命を十両で売ったと思えば寝ざめがわるいが、大義親を滅す、さ。一旦志をたてて、日金貸しとひっ組んだ以上は、この位の覚悟はいるだろうさ。(乾のほうへふりかえると)おい、おい、そんなに堀のほうばかり見てるな。すこし、こっちを向け。……(あたりを見まわして)まるでこりゃ生世話物《きぜわもの》だな。……上手《かみて》はおあつらえむきの葦原、下手は土手場で木場につづくこころ、か……。木魚がはいって、合方が禅のつとめ[#「禅のつとめ」に傍点]とくれあ、こりゃあ本イキだ。四手網にからんであがってくるのは血染の衣裳……。そういえば、だいぶ暮れてきたな。……おい、乾、そんな凄い面をするな。だまっていねえで、なんとか言え。……貴公もようやく念願を達するんだ。すこしはしゃげよ、おい!」
乾は背中を丸くして煙草を吸いつけながら、
「念願だか、念仏だかわかりゃしませんよ。そんなものがあがってきたらお慰みさ」
「出ねえと知って無駄骨を折るいんちきもないもんだ。出ねえと知って……」
「はじめっから、とんちきを承知でやってる仕事だ。……妄執てなあこのことですよ。こいつが晴れないと浮かばれないんだ。……(ジロリと西貝を見ると)あんたにも多少の怨がかかってるんですぜ」
と、いった。西貝はピクピクと頬をひきつらせて、うつむいてしまった。しばらくの後、顔をあげると、
「乾老、おれは自白する」
といって、頭をさげた。乾は、瞬間、西貝を瞶《みつ》めたのち、
「なんです、急に……。どうしたんです、西貝さん……」
口調にもかかわらず、べつに驚いたようすもなかった。
「僕は絲満が殺された夜の一時ごろ、たしかに〈那覇〉まで出かけた……しかし、天地神明に誓って、殺したのはおれじゃない。これだけは信じてくれ」
乾は返事をしなかった。西貝は急きこんで、
「……あの晩、演舞場を出たのが十一時ちかく。二三軒はしごをかけて、新橋〈たこ田〉でまたのみなおしているうちに、その朝受取った、れいの〈遺産相続通知〉の手紙を思いだした。……酔っていたせいもあったろうが、いったん考えだすと、とめ途もないんだな。……馬鹿馬鹿しいが、そのときは、何万……という遺産が、小生のふところへころがりこむように思われてきたんだ……。昂奮したね。こんな気持で、とても明日までなんぞ待っていられない。……よし、これからすぐ乗込んでいって埓をあけてやろう……。あわてふためいて、枝川町までタキシを飛ばした。……むこうへ着いたときは、ちょうど一時十分だった。二階の雨戸があいて、ぼんやり電気の光がもれていた。……小生は勢いこんで戸口までいったが……、(悚えるような眼つきをして)戸口まで行ったが、どうしても把手に手をかける気がしない……、どういうわけか、凄くて、怖くて、どうしてもはいる気がしない。……そのうちに、意地にも我慢にもやりきれなくなって、平久町まで駆け戻って、あそこから洲崎《ベニス》の灯を見ると、ようやく人心地がついた。……今にして思えば、多分あのころは、内部じゃ殺しの真最中だったんだろう。……ありていに申しあげると、こういうわけなんだ。嘘も……偽りもない。……どうか妄執を晴らして……小生だけは、助けてくれ……」
本気か冗談か、手を合せた。乾はニヤリと笑って、
「知ってるよ。……ひとが悪いようだが、大体は知ってたんです。……でもねえ、あんたの口からきいて見ないことにゃ……」
と、いいながら、堀のほうへ眼を移した。途端、なにを見たのか、うむ、と息をひいた。
ひきあげた四手網の目から、ポタポタと滴がたれる。網のなかに、丸く束ねたぼろ布のようなものがはいっていた。
「オーイ、旦那ア、なんか出たぜえ」
腐ったようなシャツを着た白髪頭のルンペンが、それを両手にかかえて岸のほうへ駆けてきた。
念いりにくくった針金をといて、地面のうえにひろげる。地色はもうわからないが、支那縮緬《クレープ・ド・シン》の女の服だった。そのなかに富士絹の白い下着。棒きれの先でひろげて見ると、地図をかいたように血の汚点がべっとりとついていた。
乾はつくづくと検分すると、妙にとりすまして、いった。
「おい、おやじ、これをもとのようにくくって、いまのところへ沈めてくれ」
「えっ、また沈めるんですか」
「黙っていったとおりにすればいいんだ。……さがしてるのはこんなもんじゃない。……かかり合いになるからよ」
「へえ、ご尤も……」
もとのように石をつめてくくられると、着物はまた溜堀の水の中へ沈んでいった。急に暮れかけてきて、うす闇のなかで、西貝の煙草の火が赤く光りはじめた。
9
秋風がふく。
狭すぎる新宿の通りを、めっきり黝《くろず》んできた人のながれが淀みながら動いていた。ひとすじは角筈の歩道を下り、ひとすじは三越の横から吉本ショウのほうへ曲って、けっきょく駅のなかへ流れこんでしまう。新宿は憂いあるひとの故郷ではない。このなかへ自分をかくすことも、このなかで悲しみを忘れることも出来ない。新宿は、浅草がするようにひとを抱いたりしない。用をすましたら、さっさと出てゆかなくてはならない。新宿は近代的な|立て場《ルレエ》にすぎないのだ。
久我が二幸の横の食傷新道から出てきた。人波に逆いながら〈高野〉の前までくると、急に足をとめてそこの飾窓を覗きこんだ。明るい照明のなかで、いろいろなたべものが忌々しいほど鮮やかな色して並んでいた。
久我は昨日の昼からなにも喰べていなかった。胃酸が胃壁を喰いはじめている。そのへんが燃えるようだった。いま掌に五十銭銀貨をひとつ握っている。無意識になかへ入って行こうとした。……しかし、葵もやはり昨日から喰べていないのだ。窓から身体をひき剥すと、またのろのろと三丁目のほうへ歩きだした。
乾のところへ穂高ゆきの旅費を借りに行って、いま、けんもほろろに断わられてきたところだった。あんな得体のしれない女と同棲している男に信用貸など出来るものか。別れてきたら用達てましょう。ま、当座のご用に、といって五十銭玉をひとつ差しだした。乾だけがめあてだったので、眼が眩むような気がした。
神戸から帰って以来、久我は毎朝警視庁へゆくといって家を出ると、四谷見附まで歩いて行き、夕方までの長い時間をもてあましながら、そこの土手で寝てくらしていた。葵が身の皮を剥ぐようにしてやっていることはよく知っているのだが、職をさがすとしても、はじめての東京にはひとりの知人もなく、そもそものキッカケさえつきかねる。考えあぐねて、けっきょく眠ってしまうのだった。
十年前は〈トムトム〉の同人として活発な運動をつづけていた。支那へ行って放浪生活をはじめてからは、おいおい何ものにも興味を失って、いつの間にか運動から離れ、仕事らしい仕事はなにひとつせずに暮していた。この十年間に彼が得たものといえば、無為のみが人間の精神を自由にする、というアフォリズムだけだった。日本へ帰って来たのは、勿論望郷の念などによるのではなく、変った土地へ行って見ようと思ったのにすぎない。
大阪へつくと、その夜、まるで宿命説のように過去の因縁に逢着した。むかしの同志、石原と中村が、合同後の党資金
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