りで帰ってきました。支那では、香港《ホンコン》、漢口、北京《ペキン》という工合に転々としていたのです。最近の二年は上海《シャンハイ》にいて、そこの賭博場でマネエジャーのようなことをしていました。全国自連には関係がありません。……(そういい終ると、那須の顔を見つめて)しかし、おききになりたいというのはこんなことですか。……さっきは、絲満事件について、と言われたようでしたが……」
那須はすこしテレたような顔をして、
「いや、そうじゃありません。……あまりあなたの返事っぷりがいいので、つい、いい気になったんです。失敬しました……では……ひとつきいてください。ご承知の通り現場《ヤマ》はさんざんにひっくりかえされていて、ひと眼で初犯の手口だということがわかる。だが、それは非常な綿密な人物で、証拠というほどのものはなにも残していません。手の触れたところは、みないちいちハンカチで、拭ってあるという有様です。ひとつとして忘れたところがない。実にどうも驚嘆に価いしますね。……残っていたものというのが、柳の木の幹のすり傷、衣裳戸棚の中のすこしばかり乾いた泥。それからこんどの釦《ボタン》の血の紋章です。……これだけです。……この釦は現場の血溜のなかから拾ったものとする。すると、いきおい加害者は女の服を着ていたということになりましょう。……ところで、こんどの犯罪劇《グランギニョール》の舞台に、四つの女のタイプが登場しています。……第一はその前夜の十一時頃〈那覇〉へ飛びこんで来て絲満と酒をのんだという、ボーイが見た二十二三の、すらりとしたモダン・ガール。第二は、前夜の八時頃古田君が蛤橋の袂で出逢って、十時すこし前まで〈那覇〉でいっしょに飲んだという十八九の、小柄な美しい娘。……第三は、その夜の午前三時ごろ浜園町の附近で巡視中の巡査が見かけたという、令嬢といった風の、二十二三の美しい上品な女。……第四が、六月四日に松村貸衣裳店へ現れた、怒り肩の、すこし不恰好な背の高い女です。……ところで、これらの特徴を拾いながら、だんだん整理して見ると、この四人の女は三つの類型《ジャンル》に分類されるのです。くどく説明するまでもなく、第二の女は小柄だという点で、これは独立したAという属《ジャンル》にはいる。第四の女は、不恰好でみっともなかったというので、また別のBという属にはいる。第一と第三は、どちらも二十二三で、上品で、すらりとして美しいというから、これは同一の人物と仮定してCという属にいれる。……そこで、この三つの属の内容を調べて見ると古田君が逢ったというAは、キモノを着ていて、しかも十時すこし前に古田君と連れ立って〈那覇〉を出て門前仲町まで行って、そこで別れている。加害者がクレープドシンの服を着ていたというところからおして、このAを容疑の圏外に置く。それからBのほうは、……巡査とボーイの、この二人の目撃者の陳述を基礎にすれば、そんな板額《はんがく》は、その夜、深川にも〈那覇〉にも現れていません。すると、必然的に、加害者はCだという仮定が成立つ。……Aは仮りにこの事件に関係がないとするとBとCの関係はこんな風になるのではないか。……つまり、BはCのために衣裳を借りに行った。……碌々身体にもあてずに持って帰ったということが、それを証拠立てています。自分が着る服なら、そんな選び方をするはずがない。それから、Bは保証金の受取証を持って帰っていますね。もしこの服が殺人の変装に使われると知ったら、そんな受取証は持って帰らずに、どこかで引裂いて捨ててしまったでしょう。この事実から、Bはこの殺人に了解がなかったことと、同時に使いをたのまれたのに過ぎないということが、二重に証明されます。……(茶碗の底に残っていた茶をズウと音をたてて啜りこんでから)さて、これだけの材料を順序よく配列して見ると、だいたいこんなことになる。……二十二三の、上品な、すらりとした美人が、ある女に頼んで服を借りて貰い、それを着て十時十分頃〈那覇〉へやってきた、このときボーイがそのうしろ姿だけ見ている。……そして、ボーイは帰る。それから一時ごろまで絲満とフリの客三人で大いに飲み、あるいは大いに飲ませ、絲満が泥酔したのを見すまして、帰るふりをして横手へまわり、柳の木をつたって二階の窓から寝室にはいり、衣裳戸棚の中にかくれて待っていた。絲満が泥酔して階下からあがってくる。寝台に倒れてぐっすり寝こんだところを、のしかかって心臓を三突、頸動脈をひと刺し。それから水差の水を金盥にとって手を洗い金をさがして発見する。綿密に部屋の中を拭いてまわる。釦をひろって受取書につつむ。もうなにも手落ちはない。そこで、扉をしめて鍵をかけ、階下の入口から悠々と出て行った。この時はもう三時近い。蛤橋を渡って浜園町へ行こうとすると、むこうから巡査がやってきた。あわてて一丁目の角を右に曲って、一直線に深川塵芥処理工場の方へゆく。そこの近くにある曲辰の材木置場のところまで行って、そこで、突然に大地へとけこんでしまったのです。(久我の顔を見つめながら)ここまではどうでしょう?」
久我は微笑しながら、いった。
「面白いですね。よく判ります。それから?」
那須はますます能弁になって、
「……ところで、この犯罪の最も短い半径内に、容疑者の権利をもつ二人の女性がいます。ひとりは、絲満の以前の情婦で……いま〈フレンド荘〉をやっている朱砂ハナ。もうひとりは、久我夫人すなわち葵嬢。……だが朱砂ハナのほうは、事件のあった十八日以前に、密淫売のかどで検挙《アゲ》られて、事件の当夜は洲崎署の留置場にいたんです。……まずこれ以上の完全な不在証明はありません。そこで、久我夫人のほうですが、これは二十二三で、上品、すらりとした美人です。本来ならば、なんとしてもまぬかれないところです。つまり美人なるがゆえに、こういう災難を蒙ることになった。美人になりたくないもんです。が、このほうも幸いなるかな、完全に近い不在証明があった。その夜は、夜の八時から十二時まで〈シネラリヤ〉に働いており、十二時半からつぎの朝まで、ちゃんと自分のアパートにいた。のみならず、〈那覇〉のボーイが、この女ではない、と断言した。うしろ姿だけ見ていて、当否の断定を下した。……なかなか秀才ですよ、こいつあ。冗談はともかくとして、こういう工合だから、Cという女の値は依然としてXのままで残ることになった。のみならず、忽然として深川の一角で消滅してしまったというんだから、なかなかただもんじゃない……人間がとけてなくなる。そんなことがあり得る筈はない。いずれどこかにチャンと切穴が明いてるんです。……そこで、ひとつ実地に魔術の舞台を験めて見る必要がある。……(そう言いながら、ポケットから手帳をとりだすと、精細に書きいれた地図を示して)ご覧の通り、殺人のあった枝川町一丁目は四方を海と掘割で囲まれた四角形の島です。この島を出て深川の電車路へゆくには、この蛤橋を渡って浜園町へ出るか、この白鷺橋を渡って塩崎町へぬけるか、それ以外には道がない。……いったい深川というところは、まるでヴェニスのように、孤立した島々が橋だけでつながっているようなものですが、ここ位い不便なところも少いのです。……ところで蛤橋のほうから巡査がきた。あわてて白鷺橋を渡ろうとすると、その橋詰に交番がある。……この×の印がそうです。島から出ようとすると、どんな事をしてもその前を通らなければならない。止むを得ず後しざりをして、いったん島の奥に逃げこんだ。……やがて、間もなく戻って来て、交番の前を通って、市電の木橋のほうへ行ってしまった……としか考えられません。……なぜなれば、人間一匹が消えてしまう筈はない。のみならず、若い女がそんなところでまごまごしていたら、……危険は一刻毎に増大する。……あの辺は海風が吹いて涼しいものだから巡査が涼みがてらにむやみに巡視をするんです。この辺はなにしろ一目で見渡せる広っ場なんだから、どう隠れたってすぐめっかってしまう。……どうしたって、やはり交番の前を通って出ていったと思うより仕様がない。……ところが、その夜白鷺橋の交番には、しかも二人の巡査がいて、非常に暑い晩だったので、十二時から朝の四時まで交番の前へ椅子を持ち出して涼んでいたのです。ところが、その間女などは一人も通らない……もちろん、ひとは通ったが女は通らない、と言うのです。……僕はハタと行きづまった。苦しまぎれに、いわゆる習得的方法というのをやって見た。現場のまっ只中へ自分をおいてみたのです。……昨日曲辰材木置場の丸太の上へ腰をかけて、僕がもし犯人なら、こういう条件と地理に於て、いったいこの次にどういう行動を起すだろう……昨日、曲辰材木置場の丸太の上へ腰をかけて、つくづくと考えて見たんです。……(ニヤリとうれしそうに笑うと)……間もなく到達しましたよ。なんでもなかったです。……つまり、こうなんです。まず、血のついた服をぬいで猿股ひとつになる。服は錘をつけて木場の溜りへ沈める。それから頭と身体をすこし水に濡らして、シャツを小脇に抱えてスタスタと交番の前を通って行ったんです。……この辺の住人はひどく無造作で、暑くて寝られないと、夜でも夜中でも海へ泳ぎに出かけるんですね。もちろん裸の道中です。巡査も馴れっこなので、べつになにも言いやしない。……こういうわけで、犯人はなんのおとがめもなく関所を通りぬけたのです」
西貝が、くっくっ、と笑いだして、
「女が猿股ひとつになって、交番の前を通ったって、それで無事だったのかい」
那須はニコリともせずに、
「そうさ、女ならそんな芸当が出来るはずはないから、それでその人物は男だったという結論を得たのだ。この推理には間違いがない。嘘だと思ったら曲辰の溜堀の底を浚って見たまえ、必ずその服が出てくるから。……(そして、久我のほうをむくと)どうでしょう……?」
と、いった、久我は那須の眼を見かえしながら、
「適切ですね、敬服しました」
と、いった。那須は急に顔をひき緊めると、低い声で、
「久我さん、殺したのはあなたでしょう?」
座敷のなかは急にひっそりとしてしまった。古田が、ごくりと喉を鳴らした。
久我が、しずかに口をきった。
「それはお答え出来ません」
両手を膝に置き、自若たる面もちだった。那須はうなずいて、
「勿論ですとも。あなたにその意志がなかったら、答えてくださる必要はありません。……では、最後にひとこと……。僕の推理はだいたい成功しているのでしょうか」
「私の感じたままを申しますと、だいいちあなたのは推理ではなくて奇説《ドグマ》だと思うのです。……仮りに、あの夜私が女装して〈那覇〉にいたとしても、それだけでは私が殺したという証明にはならないからです。ここでは、女装[#「女装」に傍点]と殺人[#「殺人」に傍点]という二つの状態が、関係なくばらばらに置かれているにすぎません。この二つの名詞を結びつけて、意味のある文章にするには、どうしても繋辞《カップル》が必要なのですが、どこにもそういうものが見あたらない。私が殺したという。が、それに対する論理的な証明を全然欠いているからです。……警察ならば、臆説であろうと、仮定であろうとかまわない。あとは訊問でひっかけて、自白させるだけのことですが、あなたの場合は論理的に到達しようというのだから、こんなことではいけないのでしょう。……それから、女装のほうですが、それが私だというのは、どういう根拠によって判断されたのですか?」
「五人の遺産相続者のなかで、その資格を持っているのは、あなたの外にないからです」
「犯人が五人[#「五人」に傍点]のなかにいなければならぬというのは、どういう理由によるのですか?」
「……あの〈遺産相続の通知〉は捜査の方針を混乱させる目的で計画されたトリックだということは、いうまでもありません。あの通知で何人かの人間を殺人の現場へよびよせ、否応なしに殺人事件の渦中へひきずりこんでしまう。それで情況を複雑にし、自分の犯跡を曖昧化し、うまくいったら、自分の罪を
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