ませていた。……暗澹たる過去の残像も、記憶も、夢野の朝霧のようによろめきはじめる。霧がはれて、野のうえに、いま、朝日がのぼりかけようとしている。快活な、新しい生活の寝床では、むかしの夢さえ見ないであろう。……なにより、自分はもうひとりではない。赫耀たる詩人の魂をもった、このアドニスは、自分をひいて人生の愉楽の秘所にみちびいてくれるのであろう。……葵は、そっと卓の下をまさぐった。そこに、久我の手があった。それが葵の小さな手を、そのなかに温く巻きこんだ。葵の背すじを、ぞっ、と幸福の戦慄が走った。
口論がひと句切りになったとみえて、西貝が、亀の子のように首をふりながら、葵のほうへ近づいてきた。
「……人殺しイがア、とりイもつ縁かいな、と。……愉快ですなア、奥さん」
と、いいながら、いやらしく、葵の肩にしなだれかかった。葵は、微笑しながらうなずいた。
那須が、むこうのはしから、君、葵君、といいながら立ちあがってきた。
「ねえ、葵君。……ダンサア稼業に訣別の夜だ。記念のためにタンゴを踊ろう。……(久我のほうへ顔をつきだしながら、)ね、いいだろう、久我。……妙な面アするなよ。……亭主なんか、
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