後、葵は、臆病そうに口をきった。
「送ってちょうだい。……ひとりでは、うち、恐ろし……」
 久我は、それに返事せずに、笑いながら、
「さっきの司法主任の話、あれ、出まかせです。乾老が、つまらないことをいつまでも喋言ってるから、ちょっと黙らして見たんです。……これで、なかなかひとが悪いところもあるでしょう。……(すこし真面目な顔になって)葵さん、あなたはもう喚びだされることはありませんから、心配しなくても大丈夫です」
 と、いうと、上衣の内ポケットから、金色の紋章のはいった警察手帳をとりだすと、はじめの頁をめくって見せた。〈久我千秋〉と、彼の名が書いてあった。
「安心してください。……私がこう言うんだから……」
 そして、やさしく葵の手をとった。
 どうしたというのか。……葵は急に蒼ざめて、低く首をたれてしまった。久我の掌のなかで、葵の小さな手が、ぴくぴくと動いた。早くそこから逃げだしたいという風に。

     4

 事実は小説よりも奇なり、ということは、たしかに有り得る。しかし、それが奇にすぎ、すこし通常の域をこえていると、もう一般からは信じられなくなってしまう。小説の場合と全く同
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