なかった。(彼女の二十三年を通じて、彼女は、嘗つてなにびとも愛しはしなかった)
葵が〈那覇〉で、はじめて久我のとなりに坐ったとき、彼女はまず、端正な久我の美しさに狼狽せずにはいられなかった。つづいて久我に話しかけられたとき、とりのぼせた彼女の耳は、なにを語られているのか、ほとんど理解することが出来なかった。
彼女の知覚がようやく恢復したとき、こんどは、彼女は阿呆のようになっていた。……正確に言えば、彼女は臆病になり、粗野になり、相手の気にいりそうなことすらひとつ言えない、もの悲しい、不器用な娘になり切っていた。
久我がはじめて〈シネラリヤ〉を訪れたとき、はじめ、葵には現実だとはどうしても信じられなかった。それほど思いがけなかったのであった。この喜びは彼女を溺らせて、狂人のようにしてしまうほどであった。
久我がアパートまで葵をおくり届けたいと申出でたとき、彼女は不覚にも涙を流したのだった。
葵は自分の部屋へはいると、いそいで着物をぬいで、スキーヤーのように白い寝床のスロープへ辷りこんだ。そして(あたしは、もうひとりではない)と、うかされたようにいくどもつぶやいた。いま、葵の部屋
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