当である。……
 葵は、アパートの差配の娘や、〈シネラリヤ〉の仲間に久我のことを話すときは、彼を(許婚者《フィアンセ》)とよんでいた。彼女に好意をもつほどのものは、一日もはやく、その披露式を見たいと望むのだった。だれよりもそれを望んでいるのは葵自身であるが……
 葵は、ほとんど毎晩(許婚者)に逢っていた。久我が〈シネラリヤ〉へ葵を迎いに来、それから角筈の界隈で、なにかしら、二人で夜食をたべるのだった。西貝もときどき仲間をつれて、二人の夜食に加わった。乾老人の骨董店も、すぐその近くにあったので、迎えにやれば一議に及ばず駆けつけてきた。
 葵は、久我と二人きりでいるときも、大勢で卓についているときも同じように楽しそうだった。殊に、そういう時は、久我のそばによりそっていて、初心の主婦のように、いろいろと細かい心づかいをするのだった。西貝が、酔って猥談をしても腹を立てなかった。乾がコップから酒をこぼして胸をぬらすと、そのたびに立って行って、やさしく拭ってやるのだった。すると、乾は、葵嬢よ、あんたを最初に警察に密告したのは、このあたしなんだが、なんとも、かんとも申しわけのない次第で……、と、顔じゅうを涙びたしにして、繰りかえし巻きかえし詫びるのだった。
「……つまり、ひがんでるんだねえ。……これが、あたしの悪い病さ。……ひねくれた書記根性ってのは、一朝一夕ではなかなかぬけきらない。……そこへもってきて、五十二年の鰥寡孤独さ。意地悪をするのが楽しみになるのも無理はなかろう。……しかし、まあ、かんべんしてくださいよ。あなたにゃ、まったく、すまないと思ってるんだから……」
 二時ごろまで、……時には、こんな風にして、たのしく夜をあかすのだった。

 暗い空で稲光りがしていた。久我は、いつものように葵をアパートまで送ってきた。なかへはいろうとする葵を、ちょっと、と、いって呼びもどすと、聴きぐるしいほどどもりながら、いった。
「……葵さん、どうか、僕と結婚してください。(そういうと、逃げるように、すこし身体をひいて)じゃ、おやすみ。……いや、いますぐ返事しないで……、一晩よく考えて、あすのひる、僕のところへやってきて下さい、一緒に食事をしましょう。……(そして、つぶやくような声で)……もし、承知してくれるなら、……手袋をはめてきてくれたまえ。……あの、レースのついたほうを……」

 久我と葵は結婚した。
 絲満南風太郎の殺人事件は、はしなくも、とうとう一組の幸福な夫婦をつくることになった。
 二人ながら両親がなく、親戚というものもこの東京に持っていないので、披露式の祝いの席に連なるものは、いきおい、あの朝、〈那覇〉で逢った連中のそれ以外ではなかった。西貝計三、乾老人、……それに、若い新聞記者の那須が一枚それに加わった。新宿の、〈天作〉という小料理店の離れ座敷だった。
 西貝と那須は、大理石の置時計を贈って、大いにきばったところを見せた。
 乾は大きな地球儀を贈った。これで、どうしろというのだ。……その詮議は、どうでもいいとして……
 西貝が、立ちあがって祝辞をのべた。人差指で、鼻の孔をほじりながら、
「……要するに、結婚の功利的方法というのは、一日も早くガキを産んで、自分らの責任を、全部ガキどもになすりつけてしまうことなんだ。七つになったら、どんどん尻をひっぱたいて、小銭を稼がせろ。……いくら出来の悪いガキでも、(歌わせてよ)位はやれるからな。……偶※[#二の字点、1−2−22]、出来のいいのをヒリ出したら、じつにその効用計りしるべからず。……すえは芸者かネ、花魁《おいらん》か、サ、なにも、おやじがあくせくして稼ぐものはねえ、功利的結果が、よってたかって、飯を喰わしてくれらアね。……さればさ、無数のガキを産んで、老後、ますます安泰に暮らされんことを、謹んでいのります」
 そして、両手をあげて、万歳! と叫んだ。那須が、キンキラ声でそれに和した。みな、もうだいぶ酔っているのだった。そんな祝辞があるものか、真面目にやれ、真面目に! 乾老が、泳ぎだしてきて、抗議した。
「……ちょっと伺うがね、そいで、喰わせるほうはどうするのかね」
「わけアないさ。ガキ同志で、相互扶養をやらせるのだ。……兄はすぐのその下の弟を養う義務がある。その弟は、すぐまた下の弟を……。こんな工合に順ぐりにやって行く。……一番ビリのガキは一番上の兄を養う。……要するに、久我夫妻は、手を束ねて見ていれあいいのさ」
 乾が、憎々しい口調で、つぶやいた。
「ふん、新聞記者の頭なんて、たわいのないもんだ」
 これがキッカケになって、二人は口論をはじめた。那須までそれに加わって、追々手のつけられないようになって行った。
 葵は、そんな騒ぎも、ほとんど耳にはいらないようすで、うっとりと眼をほおえ
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