で起居し、いかなる人間にたいしても口をきかなかった。
和泉家のさまざまな慣例のうち、本家の二男三男は、分家の女子と縁組するのが、代々の規定になっていたので、葵もその例に洩れることは出来なかった。実情を明かせば、本家の家系は、いわゆる劣性家系であって、屡※[#二の字点、1−2−22]手のつけられぬ不適者をだした。こんな家に嫁の来手はないのだから、強制的に分家の女子を、それらの※[#「やまいだれ+発」、36−上−16]疾にめあわす必要があったのである。
このようなわけで、葵は先天的に夫をもっていた。葵の夫とさだめられていたのは、正明という本腹の四男であった。これは純粋の痴呆で、のみならず、眼球震盪症といって、眼球が間断なく動いている、無気味な病気を持っていた。
葵の十五の春に、父が喉頭癌で死ぬと、分家を立てるという名目で、二十一歳の正明が、急遽、葵の家へおくだり[#「おくだり」に傍点]になることになり、葵はその夜から、この阿呆と同室で、夫婦のように起居することを強いられるのだった。本家から正明に附属してきた老女が、(これは、言いようない愚昧な女だったが)初心な娼婦をなやす[#「なやす」に傍点]遣手婆《やりてばば》のように、心得顔に万事をとりしきって、分家のなにびとにも有無をいわせなかった。
つぎの夜、正明は猛然と葵の前に立った。彼は異常な Satyriasis の傾向をもっているのだが、実際のことは知らなかった。老女が教えても、それを了解することが出来ない風だった。しまいに懊《じ》れてくると、爪をのばして、ところ嫌わず老女を掻きむしるのだった。
忠義一途なこころから、老女が力いっぱいに葵をつかまえる。その近くで、白痴面が、れいの眼玉をたえずギョロギョロと動かし、鼻翼をふくらませながら、夢中になって無益な身動きをつづけているさまは、なんといっても、この世のすがたと思われなかった。
しかし、結局は、いつも葵のほうが勝つ。力いっぱいにはねのけると、母のいる数寄屋まで逃げてゆくのだった。すると、老女は、この家には、たれ一人自分に手を貸すものはない、言語道断な不忠ものばかりだ、といって、さんざんに猛りたち、あげくは、大声で泣き出すのだった。この格闘は、ひと月に五六度は、きまってくりかえされるのだった。
葵はこの環境から逃げだすことばかり考えていた。もとより母は※[#「やまいだれ+発」、37−上−1]人でたのみにならない。ここから逃げだして、世の中で生きてゆくには、自ら営々とその力を養うほかはないことを覚った。ただひとり、彼女に力をあわしてくれたのは、一週に三度ずつやってくる、若い女の家庭教師だった。葵は、あらゆる方法を、感情を、手芸を、世間を孜々としてこの婦人から学びとった。葵は十八歳の秋に家をすてた。五島列島の福江島へゆき、そこの、加特力《カトリック》信者の漁師の家に隠れた。(これは家庭教師の生家だった)二十一の春までそこで暮らし、神戸のダンス・ホールで二年ちかく働き、二た月ほど前に東京へ帰ってきて〈シネラリヤ〉へ通いはじめた。
葵が警察で自分の過去をうちあけなかったのは、こんどひき戻されると、もう、久我に逢うすべがなくなるからであった。(正明は健全で、しきりに彼女の帰宅を待ちわびている)こういう場合警察が彼女の味方をするべきいわれはない。六年前の捜査願を適用して、完全にその職能をはたすであろう。
久我を偽っているのは、ひとえに、彼女の劣性家系を知られたくないからだった。たぶん久我は彼女の血のなかにも、不適者の因子を想像して、たちまち、面を蔽って逃げだすであろう。真実を言うために久我を失うのは、耐えられないことだった。……それに、すでに嘘をいいすぎている。もう、とりかえしがつかないのだった。葵は告白しないことに決心している。
それにしても、久我は美しかった。恋人として見るときは、不安を感ぜずにいられないほど、端麗な顔をしていた。こんな青年が警視庁にいるとは信じ難いほど、優雅な挙止をもっていた。〈シネラリヤ〉へ集ってくる最も貴族的な青年たちですら、久我ほどの|典雅さ《エレガンス》はもっていないのであった。
いまでは、葵は久我の真実と、愛情にいささかの疑も持っていなかった。彼は葵を警察から〈釈放〉さえしてくれたのである。これが愛されている証拠ではなくてなんであろう。たぶん、そう信じていいのに違いない。
その美しい容貌にかかわらず、久我の性情は堅実だった。そのうえ、彼はすぐれた詩人だった。もう五年……、すくなくとも、四十になるまでには、彼は、なにかひとかどの仕事を成しとげるであろう。家庭にいて、自分もそれに協力するのは、楽しいことに違いなかった。一日もはやく、ダンサーなどはよさなくてはならない。彼のために、そうするのが至
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