ませていた。……暗澹たる過去の残像も、記憶も、夢野の朝霧のようによろめきはじめる。霧がはれて、野のうえに、いま、朝日がのぼりかけようとしている。快活な、新しい生活の寝床では、むかしの夢さえ見ないであろう。……なにより、自分はもうひとりではない。赫耀たる詩人の魂をもった、このアドニスは、自分をひいて人生の愉楽の秘所にみちびいてくれるのであろう。……葵は、そっと卓の下をまさぐった。そこに、久我の手があった。それが葵の小さな手を、そのなかに温く巻きこんだ。葵の背すじを、ぞっ、と幸福の戦慄が走った。
口論がひと句切りになったとみえて、西貝が、亀の子のように首をふりながら、葵のほうへ近づいてきた。
「……人殺しイがア、とりイもつ縁かいな、と。……愉快ですなア、奥さん」
と、いいながら、いやらしく、葵の肩にしなだれかかった。葵は、微笑しながらうなずいた。
那須が、むこうのはしから、君、葵君、といいながら立ちあがってきた。
「ねえ、葵君。……ダンサア稼業に訣別の夜だ。記念のためにタンゴを踊ろう。……(久我のほうへ顔をつきだしながら、)ね、いいだろう、久我。……妙な面アするなよ。……亭主なんか、どんな面をしたって、かまうもんか。……葵君、さ、踊ろう、踊ろう……」
葵の手をつかみ損ねて、卓の上へのめり、勢いあまって、喰べ荒した皿小鉢といっしょに、乾の膝の上へころがって行った。それで、またひと騒動がはじまった。
纒いつくように、夫に寄りそって、中野の、二人のアパートまで帰りながら、葵は、歌いだしたいほど幸福だった。
久我が、いった。
「……今週の終りごろ、僕は公用で台湾まで行かなくてはならない。……(葵の肩を抱きよせながら)もちろん、君もゆく。……竜眼と肉色の蘭の花のなかで、結婚するんだ、ね」
返事をするかわりに、葵は、眼をつぶって唇をさしだした。木立が影をひく、蒼白い路のうえに立って、二人はながい接吻をした。
十一時零分、東京駅発、下関行急行。
二人は大雨のなかを、東京を発っていった……。
乾が、息せききって駆けつけてきて、大阪寿司に一箱のキャラメルを添えて、二人の窓のなかへ押しこんだ。
「すぐ帰って来ますわ」
葵が、乾にいった。そして、そのほうへ子供のような、小さな、嫋やかな手をさし出した。
汽車が出て行った。
5
乾が帰ってきた。夏羽織の肩も裾もぐっしょりと濡らして、まるで川へはまった犬っころのようなみじめな風態だった。
ぬれた内懐から気味わるそうに鍵をひきだして、鍵孔にさしこもうとすると、思いがけなく、すうっ、と扉が内側へあいた……
急に眼つきを鋭くして首をかしげる。しめ忘れたはずはない。……だれか内部にいるのだ。扉のすき間に耳をあてて息をころす。それから、二三歩身をひくと、きっと二階の窓を見あげた。
西洋美術骨董、と読ませるつもりなのだろう〈FOREIGN ARTOBJECTS〉と書いた看板のうしろで、窓の鎧扉がひっそりと雫をたらしていた。飾窓も硝子扉もない妙に閉めこんだ構えの、苔のはえたような建物だった。
扉をあけてそっと店のなかへはいり、身体をまげて板土間の奥のほうをすかして見る。
足のとれた写字机、石版画、セーブル焼の置時計、手風琴、金|鍍金《メッキ》の枝燭台、古甕……鎧扉の隙まからさしこむ光線のほそい縞の中で、埃をかぶった古物が雑然とその片鱗を浮きあがらせている。その奥のうす闇のなかで、ちらと人影らしいものが動いた。
入口の扉に鍵をかけると乾はずかずかと、そのほうへ進んでいった。
「誰だ、そこにいるのは!」
闇のなかの人物は身動きしたのであろう。かすかに靴底の軋む音がした。どうやら長椅子のうしろにいるらしい。
「出てこい、こっちへ!」
古物のなかから三稜剣をぬきだして右手に握ると、スイッチをひねる。長椅子にむかって身構えをしながら、乾が鋭い声で叫んだ。
「出てこないと、これで突っ殺すぞ!」
十八九の、小柄な娘がひょっくりと顔をだした。眼だまをくるくるさせながら、おどけた調子でいった。
「|泥棒だゾ《ヌストドーイ》」眼の窪んだ、つんと鼻の高い、すこし比島人《フィリッピンじん》じみているが、愛くるしい健康そうな娘だった。伸びすぎた断髪をゆさゆさとゆすぶり、小粋な蘇格蘭土縞《エコッセエ》のワンピースを着ていた。力の抜けたような声で、乾がいった。
「……|お前《イヤー》、……鶴《チル》……」娘は背凭せを跨いでどすんと椅子のなかへ落ちこむと、おかしな節をつけて唄った。
「……天から落たる絲満小人《イチウマングワー》、幾人《イクタイ》揃うて落たがや!」
そして、嗄れた声で、は、は、と笑った。
突っ立ったまま、乾はひどく険しい顔で、
「鶴《チル》! どんな風にしてはいってきた」
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