ろ、もとは、絲満の漁師ですからね。……それで、そんなことをやってるうちに、北海道の北端の、例の留萠《るもえ》築港の大難工事が始まった。すると、南風太郎は自分の郷里から、二百人あまりの琉球の人間をだまして連れだしてきて、これを道庁の請負の大林組へ、一人八十円パで売り飛ばしたんだそうです。それで南風太郎は、かれこれ二万円ばかりの金を懐中にいれたわけなんですが、一方、売り飛ばされた方は、なにしろ気候が違うのと仕事が荒いので、第二期の突堤工事が出来たときには、二百人のうち生き残ったのは、わずか五七人だけだったそうです。……南風太郎は、そのほか西貢《サイゴン》やシンガポールあたりへ、ひどい女の沈めかたをしているそうだし、……あいつには、ひとのうらみもずいぶんかかっているわけで、僕の想像じゃ、こんどの事件は、必ずしも金だけの目的じゃなかったんじゃないかと思うんですよ。なにしろ、廻《めぐ》る因果の小車で……」
 那須は、ドスンと卓を叩いて、
「お、この餓鬼のいうことは気にいった。……サンキュウ、サンキュウ! ……こいつあ、いいツルだ。……感謝する……君、君。まったく感謝する。(立って行って、若い男の首を抱きながら)オイ、……ときに、何か飲め……」
 若い男は、待ちかねていたように喉をならしながら、
「え。……じゃ、ビールと貝巻き、を」
「よしきた。……オーイ、ビールと貝巻きだ。束にして持って来いよ」
「こっちは日本盛だ。(と、もうだいぶろれつが廻らなくなった西貝が、だみ声をはりあげた)……オイ、久我千秋……久我千! おめえは高梁酒なんて、藁からとった酒ばかり飲んでいたんだろうが、わが日本の米の酒をのんで見ろ。……ぐっと一杯のんでみろ。……やい、那須一……那須一……、ここにいるこの若いのは、こんな風に化けているが、もとをただせば、タイヤール族なんだぞ。霧社の頭目だぞ。わかったか。那須、飲め……やい、駆出しの名探偵……」
 店のなかは、がんがんするような、やかましさだった。だれも相手のいうことなんかきいていない。めいめい自分勝手に、出放題なことを、大声でわめきちらしていた。

 二人連れの男が、戸をあけはなしたまま出ていった。そこから、黎明のほの白いひかりと、すずしい朝風がはいってきた。三人はもうものを言わなかった。ひどい眠気が襲ってきた。西貝は財布をだして、いった。
「もう帰ろう……」
「……僕、……僕にやらしてくれ、……いくら……」
 がくがく、と卓のほうへのめりながら、久我はポケットへ手をつっこんで、裸の紙幣をつかみだした。

 丁度その頃、雨田葵は、文園アパートの貧しい寝床のなかで眼をさます。
 葵は苦しい夢を見ていた。どんな夢であったか、思いだすことは出来なかったが、多分それは、自分の過去の、酸苦なある一日の出来ごとらしかった。……彼女の過去には、ここではふれぬことにしよう。
 ……彼女の過去は陰鬱な雲にとざされ、嗟嘆の声にみちみちてはいたが、しかし、彼女がはじめて久我千秋に逢ったときは、東京でのある悪夢のような一日を除くほかは、やや幸福であった(と思える)十二三歳の頃の彼女と、すこしも変ってはいなかった。
 彼女は横顔には、いまもなおその頃の、童女のおもかげをのこし、こころも肉体も、そのころのままに無垢であった。葵の愛嬌のいい、明るい顔つきは、ほとんどすべての男性に好かれた。〈シネラリヤ〉で働くようになってからも、すでに五六人の男友が出来た。そのうちの三人は結婚を申込んだ。(その中にはひとりの公使さえいたのである)しかし、彼女はそのいずれをも愛してはいなかった。(彼女の二十三年を通じて、彼女は、嘗つてなにびとも愛しはしなかった)
 葵が〈那覇〉で、はじめて久我のとなりに坐ったとき、彼女はまず、端正な久我の美しさに狼狽せずにはいられなかった。つづいて久我に話しかけられたとき、とりのぼせた彼女の耳は、なにを語られているのか、ほとんど理解することが出来なかった。
 彼女の知覚がようやく恢復したとき、こんどは、彼女は阿呆のようになっていた。……正確に言えば、彼女は臆病になり、粗野になり、相手の気にいりそうなことすらひとつ言えない、もの悲しい、不器用な娘になり切っていた。
 久我がはじめて〈シネラリヤ〉を訪れたとき、はじめ、葵には現実だとはどうしても信じられなかった。それほど思いがけなかったのであった。この喜びは彼女を溺らせて、狂人のようにしてしまうほどであった。
 久我がアパートまで葵をおくり届けたいと申出でたとき、彼女は不覚にも涙を流したのだった。
 葵は自分の部屋へはいると、いそいで着物をぬいで、スキーヤーのように白い寝床のスロープへ辷りこんだ。そして(あたしは、もうひとりではない)と、うかされたようにいくどもつぶやいた。いま、葵の部屋
前へ 次へ
全47ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング