の薄いカアテンを通して、朝の光がしずかにほおえみかける。
 彼女はまだ四時位しか眠っていなかったが、もう充分に寝足りたような気持ちだった。身体のうちが爽やかで、頭のなかを風が吹きとおるように思われた。
 葵は、右の腕を頭の下に敷いて、夕方までの時間をどこで暮らそうかと考えた。空には一片の雲もない。青い初夏の朝空。葵は幸福にたえかねて眼をとじた。
 だれかが扉をたたく。多分、アパートの差配の娘だろう。それにしても、こんなに早くどうしたというのか……
 はいってきたのは、差配の娘ではなかった。
 揃いのように、灰色のセルの背広を着た二人の紳士であった。もう一人のほうは厳めしい口髭を貯えていた。
 慇懃にスマートに、出来るだけ気軽に話そうとしながら、
「……お手間はとらせませんから、ちょっと、洲崎署までいっしょに行ってください。たいしたこっちゃないんですよ。……ちょっとね。あなたも、とんだかかりあいで、ほんとにお気の毒です」
 葵は両手で顔を蔽うと、後へぐったりからだを倒してしまった。

     3

 人影のない長い廊下には、警察署特有の甘い尿の臭が漂っていた。喰い荒した丼や箱弁の殻がいくつも投げだされていて、そのうえを蠅が飛びまわっていた。遠くで、劇しく撃ちあう竹刀の音がしていた。〈司法主任〉という標札のかかった扉があいて、分厚な書類の綴込をかかえた丸腰の巡査のあとから、葵がそろそろと出てきて、窓ぎわのベンチへ腰をおろした。
 面《おも》やつれがして、まるで違うひとのように見えた。服は寝皺でよれよれになり、背中に大きな汗の汚点をつくっていた。首すじや手の甲はいちめんに、南京虫にやられた、ぞっとするような赤い斑点で蔽われていた。
 巡査がつぎの扉へきえると、葵はぼんやりした眼つきで窓のそとを眺めながら、無意識のようにぽりぽりと手の甲を掻きはじめた。
 窓のそとは空地になっていて、烈しい陽ざしの下で、砂利が白くきらめいていた。
 葵は急に眼をとじた。瞼のあいだから涙が流れだしてきた。泣いているのではない。烈しい光が睡眠不足の眼を刺激したのだ。
 葵は三日目にようやく留置をとかれた。極度の疲労と緊張のあとの麻痺状態が頭を無感覚にして、なにも考えることが出来なかった。なんのためにここへ坐りこんだか、それさえもあまり明白ではなかった。ただ、むやみに痒かった。
 葵は辛辣な取調をうけた。参考人としてではなく、殺人嫌疑で訊問されていたのだった。警察では殺人の前夜に〈那覇〉へ現れた女も、古田子之作へ遺産相続通知の電話をかけた女も葵だときめてかかっているのだった。
〈那覇〉の男が、どうもこの女ではありません、と証言し、葵にもたしかな不在証明があったのでこのほうの嫌疑だけはまぬかれたが、電話のほうは、古田が、こんなによく響く声ではなかった、と、明瞭に申し立てているのに、どうしても納得しないのだった。最後には、二人で共謀してやったんだろうなどと言い出した。こうなれば、弁明するだけ無駄のようなものだった。
 殊に、葵には、過去の経歴のうちに、明白にしたくない部分があったので、いきおい、答弁は曖昧にならざるを得なかった。係官は、そこへのしかかってきた。
 葵は、電話をかけたのは私ではない、というほか、どう言う術も知らなかった。しまいには、言うことがなくなって黙ってしまう。すると、いままで温顔をもって接していた司法主任は、急に眼をいからせ、顔じゅうを口にして、なめるな、この女《あま》と、大喝するのだった。
 二日目の昼には、強制的に検黴された。もし病毒でももっていたら、その点で有無をいわせないつもりらしかった。警察医が指にゴムのサックをはめて、葵の肉体を調べた。
 結果は思いのほかよかった。警察医は妙な笑いかたをしながら、君、あいつは処女《ユングフラウ》だぜ、といった。これが係官の心証をよくした。
 できるなら、葵はなにもかも告白して、ここから逃げだしたいと思った。こころがなげやりで、この世の幸福などは、すっかりあきらめていた今迄の葵ならば、たぶん、そうしたであろう。しかしいまは違う。久我の優しい眼《まな》ざしを透して、その奥に、おぼろげながら、幸福な自分の未来を見いだしているのだった。二十三年の半生を通じて、いま、ようやく葵は幸福になろうとしている。この夢だけは失いたくないのだった。
 検黴室の鉄の寝台にねかされたとき、葵は憤りと悲しみで心がさし貫かれるような気がした。このときばかりは、さすがになにもかも告白しようと思った。それさえすれば、この恥辱は受けないですむのだ。だが、それをいえば、葵はもう終生久我に逢うことが出来ないであろう。久我への劇しい愛情が、この屈辱に甘んじさせた。涙があふれてきて、止めようがなかった。
 乏しい木立の梢をわたって、涼しい
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