へんでビールでも……。ついそこに、腹を減らしたわれわれ同業がやってくる、夜明しのおでん屋があるんだ。社会部の若い連中も大勢やってくるから、今朝の事件のニュースがきけますぜ。……どうです、よかったら……」
 久我は高い笑い声を立てながら、
「勿論ですとも。結構です、お伴します」
「すぐそこ。……二丁目の鉄砲屋の裏。……〈柳〉というんだ。……われわれ称して〈連合通信社〉。それはそうと、今日の夕刊を見たかい」
「ええ。……でも、われわれが知っている以上のことは載っていなかったようですね」
「そう。……那須《なす》ってやつがいまやってくるから、そいつにきくと、もうすこしくわしいことがわかるだろう。……さあ、ここだ」
 西貝は久我の腕をとって、小粋な表がまえのおでん屋へつれこんだ。
 卓はほとんどみなふさがっていて、湯気と煙草のけむりがもやもやしているなかで、真っ赤な顔が盛んに飲食《のみく》いしていた。蜻蛉玉の首飾をいくつも腕にかけた中国人が、通りみちに立ちはだかって、女給たちのひと組にしつっこく押売りしている。
 西貝はそれを押しのけるようにして奥まった卓にすすんで行った。押しだされた中国人は、入口のところで久我にすれちがうと、急に彼の顔を指さしながら、甲高い声で、
「ロオマ! ロオマ!」
 と、二声ばかり叫んで出ていった。
 客は一斉に不審そうに久我の顔を見あげた。
 久我が卓につくと、西貝がたずねた。
「あいつ、いま、なんていったんだね」
「僕がおしのけたと思って悪口をいったんです。老鰻《ロオマ》ってのは、台湾語で鰻のことですが、悪党、とか、人殺し、とかっていう意味でもあるんです」
「ヘイ、君は台湾語をやるのかね。(と、いってから、大きな声で)オイ、日本盛《にほんざかり》」
 と、叫んだ。
「僕は台湾で生れたんです。……でも、両親は日本人ですよ。……大阪外語の支那語科を出ると、青島《チンタオ》の大同洋行へはいったんですが、どうもサラリーマンてのは僕の性にあわないんですね。また台湾へ舞い戻って、コカの取引ですこし金をこしらえたので、思いきりよくサラリーマンの足を洗って、新聞記者になるつもりで東京へやって来たんです。……僕は上海語も北京語も台湾語も話せるんですが、どこかの新聞社へもぐりこめないものでしょうか」
 西貝はコップで盛んに呷《あお》りながら、無責任な調子で、
「いいだろう、なんとかなるだろうさ。ま、飲みたまえ。……(そう言って、久我のコップに、またなみなみと酌ぎながら)それでなにか書いたことがあるの、君は」
「これでも、むかしは詩をつくったことがあるんです。おちかづきのしるしに一冊献上して、大いに悩ませるつもりです。覚悟していて下さい」
 西貝は酒と暑気で真っ赤になった顔を、ぶるん、と、なでながら、上機嫌に笑いだした。
「愉快なやつだな、君は。……小生のほうは、これで坊主の子さ、本来は坊主になるはずだったんだが、小生のような、俗気のない高潔な人間は、あの商売に向かないんだよ。そこで……、大学を出ると、志を立てて新劇俳優になった。そもそもの最初は……(と、いいかけて入口のほうを見ると、急に椅子の上で腰を浮かせて)お、那須がきた! ……あいつ、またなにか掴んできたぞ。……すこし想像力《イマジネーション》を要する事件になると、警察なんてものは手も足も出ないんだからな。新聞社の若い連中のほうがずっとましなんだ。(そして、手を高くさしあげると)オイ、那須……」
 と叫んだ。
 那須というのは、頭髪をべったりと頭蓋骨にはりつけた、背の高い痩せた青年で、西貝を見るとうれしそうな微笑をうかべながら、急いで近づいてきて、掛けるやいなや、オイ、菊正《きくまさ》! と、怒鳴った。
 西貝は久我のほうへ顎をしゃくって、
「こちらは、久我君。……このひとも怪人から手紙をもらったひとりなんだ。ときになにかニュースがあるか」
 那須は頭をかかえこんで、
「駄目、駄目。……(それから、顔をあげると、身体をゆすぶりながら)昼からいままで、僕は永代橋と荒川の放水路の間を駈け廻っていたんだ。それから、〈那覇〉の常連とあのへんの地廻りを、ひとりずつ虱っ潰しにして見たんだ。……ちょっと面白いことがあるんだね。富岡町の〈金城〉ってバアの女給に、朱砂《しゅすな》ハナ、ってのがいてね。これが、殺された南風太郎と同じく、琉球の絲満人なんだ。東京へそれを連れてきたのも南風太郎だし、一時は夫婦のように暮していたこともあるんだ。こいつは、琉球で小学校の先生までしたことがあるんだが、いまはもうさんざんでね。バアの二階で大っぴらに客をとるんだ。チョイト小綺麗でね、モダン・ガールみたいな風をしているんだ……こいつをききこんだときはうれしかったね。……ほら、前の晩に〈那覇〉へ酒をのみにき
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