見ると丁重に頭をさげた。久我は気おくれがして、ちょっと階段の下でためらっていたが、やがて、決心したように狭い階段をのぼって行った。
 久我はホールの端口に立って、しずかにその内部を見まわした。やや広い四角な部屋の壁にそって、チュウブ製の小卓《テーブル》が十五六置かれ、三十人ほどの男と女が、飲物を前にして、そこにかけていた。久我がはいってゆくと、ホールのひとびとは、検べるような眼つきで、一斉に久我のほうへふりかえった。ひとびとの見たものは、すこし贅沢すぎる服をスマートに着こなした、二十五六の、ちょっと例のないような美しい青年であった。
 久我は入口の近くの小卓《テーブル》につくと、もう一度念をいれて広間のなかを見廻した。しかし、そこには葵の顔は見あたらなかった。
 一人の女が立っていって蓄音機をかける。ささやくようなルムバのメロディがそこから流れだした。四五人の男が立って行って踊りはじめた。踊り場の中央には大きな磨硝子《すりガラス》が嵌めこまれてあって、下からの照明が、フット・ライトのように、その上で踊る男と女の裾を淡く照らしあげた。
 鮭色のソワレを着た十七八の若い娘が久我の傍へきて坐ると、びっくりしたような眼つきをしていつまでも久我の横顔を眺めていた。
 酒棚の上の蝉鳴器《ブザ》が、むしろ、愛想よくジイ、ジイ……と、鳴りだす。
 踊りは急に止み、男と女は急いでおのおのの小卓に駆けもどると、へんに空々しい顔をした。一人の女が蓄音機をとめる。床の照明が消されると、たちまちその上に小卓と椅子が押し出されて、そこで一組の男女がジンジャア・エールを飲みだした。このすべての動作は、めざましくも一瞬のうちに行われた。まるで、芝居の「急転換《どんでんがえし》」のようであった。
 はいって来たのは、四十歳位の、医者のような風態の男で、入口の傍に坐っている久我を見ると、急に顔をそむけるようにして、奥まった小卓の方へ行ってしまった。
 鮭色の娘は、右手を彼の腕に巻きつけながら、踊ってちょうだい、といった。久我は優しくその肩に手を置きながら、葵というひとに、友達からのことづてがあってきたのだが、もしここにいるなら逢いたいものだ、といった。
 娘は、まじめな顔をつくりながら、
「あら、そんな方、ここにおりませんわ。(すぐ自分で笑いだして)うそよ。……葵さん、いま階下にいるのよ。よんで来たげましょうね。……そのかわり、あとで、あたしと踊ってちょうだい」
 気軽に立ちあがると、階下へ駆けおりていった。
 葵があがって来た。ホールの入口に立って、奥のほうを見まわしている。酒場台《コントワール》のほうからくる琥珀《こはく》色の光が、ほとんど子供じみた彼女の横顔を浮きあがらせていた。脆そうな首筋、白い芥子のようなうすい皮膚。二十三でいて、そのくせ子供のようにも見える、あの不思議な典型的な「東京の女」の顔であった。
 久我を見つけると、葵は瞬間立ち竦んだようになって、それから、あまり劇しく身動きすると幻が消えてしまうとでも思っているように、そろそろと用心深い足どりで近づいてきた。
「……まあ、……でも、よく……あたし……」
 顔をかがやかせ、感動のために口もろくにきけない風であった。久我は、言葉をさがしながら、けっきょく、
「今晩は……」
 と、それだけいった。いかにもまずい挨拶であった。
 葵をアパートまでおくり届けると、久我はこころがときめいて、とてもこのまま眠られそうもなかったので、自分も自動車からおりると上衣をぬいで腕にかけ、快い初夏の夜風に胸を吹かせながら、あてもなく、またぶらぶらと新宿の方へ戻りはじめた。
 久我はこの東京にひとりの知人もなかった。都会の孤独は、久我にとっては、じつにやりきれないものだったので、今晩の葵のやさしさは、こころの底まで沁みとおるようであった。
〈……葵も東京でひとりぽっちだと言っていたようだった、と彼はかんがえる。……あんな美しい娘が、どうしてひとりぽっちなのだろう。そういえば、病身らしいところはある。……あまり子供っぽい顔をしているからかしら。すこし、明るすぎる。……あの種類の顔は、見るひとに、いつも郷愁を感じさせる顔だ。二年前なら、このテエマでおれは詩をつくっていたろう。……しかし、いまは、すくなくともおれは詩人じゃない。……おっと、これは失礼〉
 久我がこんなことを考えながら歩いていると、そこの路地から出て来た男に突きあたった。
「や、これは失礼」
 と、その男も帽子をとりながら、久我の顔を見ると、急に剽軽《ひょうきん》な調子で、
「これはこれは、なんたる奇遇!」
 酒鼻……西貝計三だった。
 久我も驚いて、
「おう、これは意外でした」
「こんなところで出っくわそうとは思わなかった。……どうです、もしよかったら、その
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