っきりときこえる。
二十日鼠は背中を丸くして、歯の間から荒い呼吸をしていた。草笛のように甲高くヒュウヒュウ鳴る音は、血の滴る陰気な音と交りあって、ひとの気持ちをいらいらさせた。
娘は青年の方をふりかえると、溺れかかるような眼つきをした。青年は急いで娘の傍へよると、腕のなかへ抱えた。娘は蒼ざめた額をおさえながら、夢のさめきらないひとのような声で、どうぞ……階下へ……と、いった。
その声で巡査がふりかえる。五人を見ると、はじめて気がついたように、男《ボーイ》にきいた。
「この連中はなんだね」
「店のお客です。始めてのひとばかりなんで……」
「ふうん。……さ、みんな、おりた、おりた。帰らずに階下で待っていろ。……もうここへあがって来ることはならんぞ」
巡査はみなを階下へ追いおろすと、あたふたと街路へ出て行った。
自動車がとまり、警部の一行がはいって来て二階へあがって行った。一人の巡査は、こらこら、と言って店先の弥次馬を追いはじめる。
検証は四十分近くもかかった。警部は低い声で二人の部長とささやきながら降りて来た。酒場の卓の前へ坐ると、じろじろと五人の顔を見廻した。手帖を出しながら、
「そこで、……(二十日鼠を指して)ちょっと、……君から始めよう。なんだい君は。ここへなにしに来たんだね、今朝?」
「わたくしども五人は、ある不明な人物から、今日の十時までにここへくるように指定されまして、それでやってまいったのでございますが、……しかるに、当の告知人は、とうとう姿をあらわさなかったというわけで。……手紙とは、すなわちこれでございます」
二十日鼠はポケットから、さきほどの手紙をとりだすと、うやうやしく叩頭して警部に渡した。
「姓名は?」
「乾峯人《いぬいみねと》。……高等官七等。元逓信省官吏。只今は恩給で生活いたし、傍ら西洋古家具骨董商を営んでおるのでございまして、住居は、淀橋区角筈二丁目二十七番地。……五十二歳。はい、まったくの独身でございます」
「それから、そちらの婦人……」
「雨……雨田葵《あめだあおい》……只今、新宿の〈シネラリヤ〉で働いております。……四……四谷区大木戸二ノ一文園アパート。二十三歳。独身でございます」
「よろしい。……つぎ」
「西貝計三《にしがいけいぞう》(酒鼻が無造作にこたえる)東都新聞の演芸記者。四谷区新宿二丁目五十八。当年三十七歳」
警部は菜葉服のほうへ顎をしゃくった。
「古田子之作。深川区富岡町二一七。〈都タクシー〉で働いております」
「運転手か」
「へえ、運転もいたしますが、いまはおもに古自動車をなおす方をやってるんで。……住居は、そこの二階で寝泊りしております。(頭をかきながら)まだ嬶《かかあ》はございません。へえ、三十三でございます」
警部は手帖をしまいながら、もう自由にひきとってよろしい、といった。青年が警部の前へすすみでた。
「私はまだすんでおりません」
警部は、すこしてれながら、
「ああ、……君は?」
「私は四日前に台北から上京いたしまして只今は麹町〈南平ホテル〉に泊っております。もとは青島《チンタオ》の貿易商会につとめておりました。現在は無職……失業中なのです。……久我千秋《くがちあき》。明治三十五年生れ」
そういって、上品なおじぎをした。
五人はわいわいいう弥次馬をおしわけながら街路へでた。
久我が片手をあげる。久我と葵をのせて、自動車は走り去った。
2
御苑裏の暗い街路に、〈シネラリヤ〉が夜の花のようにほの明く咲いていた。
階下は喫茶店になっていて、白い紗のカアテンをすかして、椰子の葉と常連の顔を見ることが出来る。しかし、二階のダンシング=バアの方は、さように開放的ではない。肉色のカアテンが、|薄い下着《シュミイズ》のようにその肉体を蔽いかくしている。
ここに集まるひとびとは、いわゆる、大東京の通人《ラフイネ》たちである。この都会の最も装飾的な要素であり、東京の「遊楽街《リユ・ド・プレエジール》」の伝説口碑に通暁しているすぐれた土俗学者たちだ。多少は互いの身分を知り合い、いくらかずつは、互いに肉親的なものを感じている連中である。
バアの広間の中央は、「踊り場」になっていて通人《ラフイネ》たちは、そこで非合法的に踊る。この愛すべき秘密は、ある素朴《プリミチフ》な方法によって保たれていた。
「常連」以外の男がはいってくる。(これは風紀巡査かも知れないのだ)すると、信号の蝉鳴器《ブザ》が低くうなりだす。階下からの合図だ。二階のタンゴは、そこで、片足をあげたままで停まらなくてはならない。……この冒険が〈シネラリヤ〉の魅力になっているのであった。
その日の夜十時頃、久我千秋は〈シネラリヤ〉の扉をおす。入口の勘定台には柔和な顔をした老人がいて、久我を
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