足で立っていた。久我の顔を見ると、小馬鹿にしたように片眼をつぶって、
「あたし、毎日あなたのあとを尾行《つけ》ていたのよ。……知ってた?」
 久我はきびしく眉をよせながら娘の顔を見つめた。〈シネラリヤ〉へはじめて葵をたずねて行った晩、しきりに久我にからみついた鮭色のソワレだ。それから、尼ヶ崎でいちど見たことがある。……たしか、鶴《チル》とかいった娘だ。
 鶴はいかにもうれしくてたまらないという風に笑いだしながら、
「……ほらね、知らなかったんでしょう。うれしいわ。……ふむ、でも、こんなところに突っ立ってないで歩きだしましょうよ。……あたし、すこし話があるのよ。(といって久我の手をとると、勝手なほうへずんずん歩きだした)あたし、あなたのしたことなんでも知っててよ」
「なんで、僕のあとなどついて歩く?」
 鶴はちょっと眼を伏せて、
「それは言えないの」
「じゃ、神戸のときも僕をつけてたの?」
「そうよ。……でも、そんなことどうだっていいじゃないの。……あなた、さっきから三度もたべもの屋の窓をのぞきこんだわね。あなたは、たべものにむずかしいひとなのね」
 あまり見当ちがいなので、笑いださずにはいられなかった。
「僕は金がなくて、昨日からなにも喰べていないんだよ」
 鶴は立ちどまって眼をまるくした。急によろめくほど久我の腕をひっぱると、
「喰べましょう。……あたしお金もってる」
「ありがたいが、……君に喰べさせてもらうわけはないさ」
「いや、借がある。……〈シネラリヤ〉にいたとき、チップくれたわね。そのつぎに来たとき、またくれたわね。……それを返すのよ。……さあ、歩けったら、歩かないと、……蹴っとばすから!」
 むやみに引っぱって、〈北京〉という中華飯店へつれこんだ。
 夕食時にすこし間があるので、店のなかには人影がなく、紫檀の食飯卓《チャプントオ》の上でひっそりと白菊が薫っていた。
 鶴はあれこれと食物の世話をやき、たくさん、たくさん食べてちょうだい、と、まるで祷るように、いくども幾度もくりかえすのだった。久我が食べはじめると、こんどは両手で顎を支えながら、その顔を穴のあくほど見つめていた。やがて、藪から棒にいった。
「東京からどこかへ行ってしまってちょうだい。どこでもいいから、早く逃げてちょうだい。お願いだから」
 箸をやすめると、すこし顔をひきしめて、
「なぜ逃げなきゃならないの?」
「あとでわかるから……穂高はだめ。上海か青島か、なるだけ遠いところへ……」
「穂高? どうしてそんな事を……」
「だから、毎日あとを尾行《つけ》てるって言ってるじゃないの。……(手提のなかから白い分厚な封筒をとりだすと、それを久我のほうへ押しやって)このなかに三百円はいってるんだ。だから、これを……」
 それをおし戻して、
「こんな世話になるわけはない」
「でも、借りるあてがないのでしょう」
「大丈夫……すぐ、手にはいる」
「じゃ、逃げてくれる?」
「逃げるなんてことはしない。少し旅行したくなっただけだ」
「いつ?」
「あす……、はやければ今晩」
 ながい溜息をついて、
「安心したわ。……(そして久我の手を自分の胸へおしつけると)じゃ、どうぞ、いつまでもいつまでもお丈夫でね」
 唇の端をこまかく震わせながら妙な顔をしていたが、突然、久我の指をきつく噛むと、やい、馬鹿やい、といった。
 うるんだような眼をしていた。

「おい!」
 久我が低い声で呼ぶと、草のなかから山瀬が、むっくりと起きあがった。明治製菓の北裏の、この辺で射的場といっている原っぱだった。久我が草の上へ紙づつみをひろげた。そのなかに葡萄パンが五つはいっていた。山瀬はそれをとりあげると、あわてたように口へ押しこんだ。削痩《さくそう》した頬に夕陽があたって、動くたびにそこが鉛色に光った。
「うまい……」
 久我の顔を見あげて微笑すると、ピクピク肩をふるわせながら、またうつ向いていっしんに喰べつづけた。ときどきグッと喉をつまらせては苦しそうに涙を流した。野良犬がものを喰べているようだった。この容貌魁偉な大男がこんなようすをしているのは、なにか一種のはかなさがあった。
 久我が、いった。
「……ずいぶん、しゃべった。じゃ、これで別れるか。……すこしきいてもらいたい話があるんだが、そんなことをしてる時間もないな」
 山瀬は口を動かしながら、
「かまやせん。もう当分逢えないかも知れないから、お互いに、言いたいことを言おう。心残りのないように。……それはどんな事か」
 久我は苦笑して、
「下らないと思うだろうが、実はあの晩、僕は女装して〈那覇〉へ出かけているんだ」
「つまり応化《アタプテーション》だな。……どうして、なかなか適切だよ」
「まあ、そう言うな。はじめからそんな気でやったわけじゃないんだ。
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