角筈の歩道を下り、ひとすじは三越の横から吉本ショウのほうへ曲って、けっきょく駅のなかへ流れこんでしまう。新宿は憂いあるひとの故郷ではない。このなかへ自分をかくすことも、このなかで悲しみを忘れることも出来ない。新宿は、浅草がするようにひとを抱いたりしない。用をすましたら、さっさと出てゆかなくてはならない。新宿は近代的な|立て場《ルレエ》にすぎないのだ。
久我が二幸の横の食傷新道から出てきた。人波に逆いながら〈高野〉の前までくると、急に足をとめてそこの飾窓を覗きこんだ。明るい照明のなかで、いろいろなたべものが忌々しいほど鮮やかな色して並んでいた。
久我は昨日の昼からなにも喰べていなかった。胃酸が胃壁を喰いはじめている。そのへんが燃えるようだった。いま掌に五十銭銀貨をひとつ握っている。無意識になかへ入って行こうとした。……しかし、葵もやはり昨日から喰べていないのだ。窓から身体をひき剥すと、またのろのろと三丁目のほうへ歩きだした。
乾のところへ穂高ゆきの旅費を借りに行って、いま、けんもほろろに断わられてきたところだった。あんな得体のしれない女と同棲している男に信用貸など出来るものか。別れてきたら用達てましょう。ま、当座のご用に、といって五十銭玉をひとつ差しだした。乾だけがめあてだったので、眼が眩むような気がした。
神戸から帰って以来、久我は毎朝警視庁へゆくといって家を出ると、四谷見附まで歩いて行き、夕方までの長い時間をもてあましながら、そこの土手で寝てくらしていた。葵が身の皮を剥ぐようにしてやっていることはよく知っているのだが、職をさがすとしても、はじめての東京にはひとりの知人もなく、そもそものキッカケさえつきかねる。考えあぐねて、けっきょく眠ってしまうのだった。
十年前は〈トムトム〉の同人として活発な運動をつづけていた。支那へ行って放浪生活をはじめてからは、おいおい何ものにも興味を失って、いつの間にか運動から離れ、仕事らしい仕事はなにひとつせずに暮していた。この十年間に彼が得たものといえば、無為のみが人間の精神を自由にする、というアフォリズムだけだった。日本へ帰って来たのは、勿論望郷の念などによるのではなく、変った土地へ行って見ようと思ったのにすぎない。
大阪へつくと、その夜、まるで宿命説のように過去の因縁に逢着した。むかしの同志、石原と中村が、合同後の党資金を獲得するために銀行襲撃を計画していた。久我は大阪の事情に通じていたので、勢い企画に参加することになった。が、これとても明確な意志があったわけではない。むしろ、懶惰のゆえである。
この計画は失敗し、久我は東京へ逃げた。上海で買った偽造の警察手帳が、この逃走に非常な便利をあたえた。東京には思いがけない二つの事件が彼を待ちかまえていた。殺人と恋愛と……。そして、彼は結婚した。
働くな、それは精神の自由をころす。久我にとっては、無為は強烈な生活意志の対象であった。彼がひとりの間は、なるほどそれは彼の精神を開放し、自在に自由美の園を逍遙させてくれたが、結婚してからは、せっかくのアフォリズムも妻を苦しめるだけにしか役立たなくなってしまった。現に彼女は、彼の身勝手な主張《テーゼ》のおかげで、二人分の労苦を背負って喘いでいるのである。
ときどきこの自覚が、深いところに昏睡している彼のたましいを揺りうごかす。すると久我は、そのたびにむっくりはね起きて、こうしてもいられないと呟き、あてもなく、セカセカと町を歩きまわるのだった。生活のことばかりではない。どういう事情があったのか、葵は絲満を殺している。なんとかして逃がさなければならないのだ。
二月まえに葵をつれて神戸へ行ったのは、そこで石原らとおちあって、いっしょに上海へ逃走するつもりだったのである。ところが、久我が神戸へ着く五時間前に、石原が名古屋で捕まり、仲間といっしょに上海へ逃げるつもりだったと自供したので、支那へ行く道は全部閉鎖されてしまった。そのうちに神戸にいることも危険になったので、また東京へ戻ってきた。
ひところは、警視庁の捜査一課でも全く匙をなげてしまい、絲満事件はこれで永久に迷宮入りするかに見えたが、最近になって情勢はにわかに険悪になってきた。検挙の手はもう葵の襟元にせまっている。一刻も躊躇していられない場合になった。葵を逃がすためには金がいるのだが、まるっきりその方策がつかないのである。
久我は焦だってきて、夕空を仰いで思わず呻き声をあげた。金を手にいれるためなら、どんな事でもしかねない気持になってきた。
久我の肩にだれか、そっと手をおいた。
反射的に衣嚢の拳銃に手をかけて、キッとそのほうへふりむいた。
日本人ばなれのした、十八九の眼の窪んだ娘が、ラグラン袖のブラウスを秋風にふくらませ、鶴のように片
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