その晩ホテルに舞踏会《パーティ》があってね、なるたけ仮装してくれというから、ホテルの婢《マグド》に女の服を借りてもらって、それを着て会へ出たんだ。十二時ちかくに部屋へ帰ろうと思って、帳場《コントール》で久我の部屋の鍵をというと、番頭が、久我さんでしたら夕方からずっとお部屋においでになります。ご用でしたらご都合を伺ってみましょうか、というんだ。……なるほど、鍵は僕が持っていた。妙な気がした。むらむらと冒険心が起きてきた。……さっきも言ったようにもう二時間もすれば〈那覇〉というところで、なにか犯罪がおきる。これを予知しているのは〈通知〉の告知人と僕だけだ。不在証明《アリバイ》はこの通り自然発生的に成立している。会は三時頃までやっているはずだからそれ迄に帰ってくればいい。……よし、行ってやれ。その家の前で待っていれば何が起きるかわかるだろう。ひょっとして金でも持って出てきたら、僕の警察手帳にものを言わせて、横合いからそいつを略奪してやるつもりだったんだ。……いや、もうお寝みだろうから、また明日くる、といってホテルを飛びだした。洲崎のおでん屋で二時すぎまで飲んで、それから〈那覇〉へ出かけた。すじ向いの古軌条置場のかげに隠れて待っていたが、いつまでたっても何事もはじまらない、痺《しび》れをきらして、そっと〈那覇〉へはいりこんだ。二階に部屋がある。手さぐりで入ってゆくと、途端になにかにつまずいて転倒した。スイッチをおして見ると、五十位の大男がやられている。……たちまち、僕の状態《シチュエシオン》は非常に危険なものになった。……女装している。胸から手から血だらけだ。間もなく夜が明ける。……それに、あの辺の地理的条件は僕のような脱走兵にとってはほとんど致命的だ。出口を塞がれた完全な袋小路だ。こんな恰好であの島から脱け出すには、たしかに一種の天才がいる。……あと始末を充分にして戸外へ出る。蛤橋のほうへ行こうとすると、果して向うから巡査がやってきた。もう一方の白鷺橋の橋詰には交番がある。……物蔭へはいって、どっかりとあぐらをかいた。すこし、頭を飛躍させるためだ。……いったい、いま僕を危険にしている条件は何んだ。ひとつは僕が血のついた女の着物をきていることで、ひとつは橋詰に交番のある橋を渡らなければならないことだ。……一見、これらの条件は絶対に避けられないように見える。しかし、すこし頭を転回して見ると、危険はそれらの条件にあるのではなくて、どうしても橋を渡らなければならないという観念から離れられないところにあるのだ。服をぬいでそこの溜堀へ沈めた。そろそろと堀を泳ぎ渡って、弁天町の貸船屋の近所へあがった。そこに腐ったような袢纒がかけ流してある。麻裏もある。そいつを引っかけて突っ立っていたらタキシが寄ってきた。ホテルへ帰って見ると、予期したようにみながまだ騒いでいて……」
山瀬が、むっつりと口をはさんだ。
「しかし、そんなことを俺がきいても仕様がないな。……いったい、君が話したいということはなんだ」
ちょっと間をおいて、
「じつは絲満をやったのは僕の妻《フラウ》なんだ」
山瀬は、まるで聞いていなかったように、冷然と空を眺めていた。久我はすこし早口になって、
「つぎの朝、巡査といっしょに二階へ上って行った。ふと見ると、血だまりのなかに女の服の釦が落ちている。しまったと思った。隙を見て拾ってポケットへ入れた。しかし、しらべて見ると、僕の服の地色とちがう。……葵の服にそれとよく似た色のものがある。そっとあてがって見たら、まぎれもなくその服から落ちたものだということがわかった。しかも葵はその夜一時頃、非常梯子をつたって自分のアパートから抜けだしているんだ。……現象的に見て、葵がやったと思うほかはないのだ」
「うん、わかった。それで、なにを言うつもりか」
「……衣裳屋へ服を借りに行った女が、いま盛んに追求されている。ホテルの婢《マグド》はまだ何も言ってないらしいが、いずれやり切れなくなって自首するだろう。……僕が捕えられるのはもう時間の問題だ。僕は殺っていない。だからこそ、葵のために僕は捕ってはならないのだ。どんなことがあっても二人で逃げとおすつもりだ。……僕の友人が穂高にいる。そこまで行けば、多少まとまった金が手にはいる。それで小樽までゆく。小樽から青島へ行く貨物船の定期航路があるはずだからそれで青島までゆく。あとはなんとかなるつもりだ」
山瀬は起きあがって草の上にあぐらをかくと、微笑をうかべながら、
「君がなにを言いたいのか、よく判ったよ。……俺に言わせると、危険なのは君の情況《シチュエシヨン》でなくて君が本気で細君《フラウ》を愛しはじめたことなんだ。君がひとりで逃げようとするなら、それは実に易々たる問題なんだからな。……むかし、虚無《ニヒル》の向う
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