んたのためならなんでもする。だがねえ、あとの騒動を待つまでもなく、いまのうちに別れちまうのがいちばんいいのだ。……あたしあ悪い事あ言わない。別れるならいまなんですぜ。ねえ、葵嬢、思いきって、すっぱりと……」
 カーテンの隙間から、ハナが顔をのぞかせた。急に険しい顔つきになって、裾をひるがえしながらつかつかとはいってくると、懐手のままで葵のまえへ立ちはだかって怒鳴った。
「オイ、ふざけるな」
 葵はあっけにとられてその顔を見あげた。
「なんだ、その面あ。……とぼけると、なぐるぜ。知ってもいようが、ここは源氏宿だ。裾を売るなら割前を出せ。無代で転ばれてたまるものか。てめえのような……」
 辛抱しきれずに口をきった。
「失敬ね。……あたしここでなにをして?」
「しらばっくれると、ひっくりかえして験《あらた》めるぜ。……おい、やって見せようか」
 と、いって、葵の裾に手をかけた。葵は身もだえをしながら、喘ぐように、いった。
「ゆるして、ちょうだい」
 乾はゆっくり立ちあがると、ハナの手を逆手にとって、
「冗談じゃない。ちょっと世帯話をしてたんでさ。……ま、かんべんしてやってくださいよ。(というと、急に顔をそむけて)ぷう、……飲んでるんだね。……弱るなあ」
 なるほど、眼をすえて、抜けあがった蒼黒い額から冷汗を流していた。
 ハナは手をふり解こうともがきながら、
「おう、飲んでるよ。……見ちゃいられねえから、いままで角の桝屋でひっかぶっていたんだ。……あ痛て……、私の前もはばからず、乳くり合っておきながら、ひとの手を……ちくしょう、離しゃがれ、……やい、離せてえのに……、助平……そんならそうと、はっきりいって見ろ。……いつでもツルましてやらア、……なんだ、こそこそと……」
 すると、乾は急にすさまじい顔つきをして、
「狂人! 勝手にしろ!」
 と、いいながら、力一杯に長椅子のほうへハナを突きとばした。ハナは背凭せに強く頭をうちつけて、瞬間、息がとまったような眼つきをしていたが、やがて猛然と起きあがると乾の喉へ飛びついて行った。
「ちくしょう……ちくしょう……」
 もう、人間のような顔をしていなかった。

     8

 ひと束ほどの庭の胡麻竹が、省線が通るたびにサヤサヤと揺れる。新宿劇場の近くで、〈磯なれ〉という小料理屋の、いかにも安手な離れ座敷だった。
 擬物《まがいもの》の大きな紫檀の食卓を挾んで、那須と古田が腕組をしている。すこし離れたところで、西貝は床の間を枕にしてまじまじと天井を眺めていた。妙に白らけたけしきだった。
 しばらくの後、古田は腕組をとると、焦《じれ》っぽくバットに火をつけながら、
「……野郎、感づいてスカシを喰わしたんじゃねえのか。……やっぱり寝ごみを押えたほうがよかったんだ。(と、いうと、腹巻から大きな懐中時計をだして)もう、一時半だ。……ねえ、那須さん、こりゃ来ねえぜ」
 那須は顔をあげると、落着いた口調で、
「いや、きっと来る。……だがね、古田君、言うだけのことは言ってもいいが、手だしをして貰っちゃ困るよ。僕が迷惑をするから。……いいか、念をおしとくぜ」
 古田は煙のなかで、不承不承にうなずいて、
「ま、よござんす。……わかりましたよ」
 と、いって横をむいた。西貝は煽てるような口調で、
「三つ四つ撲りつけるのは関《かま》わんさ。その位のことがなくちゃおさまらんだろう、なあ、古田氏……」
 那須は眉をしかめて、
「よして貰おう。さっきも言ったように、今日はそういう趣旨じゃないんだから。……それに、(皮肉な眼つきで古田の顔を見ながら)下手なことをすると、古田君、胸板にズドンと風穴があくぜ」
 古田は眼を見はって、
「じゃ、ピストルでも持ってるのかね、野郎……」
 那須がうなずいた。西貝はせせら笑って、
「本当か、おい、那須。……また附拍子《ツケ》を打ってるんじゃねえのか」
 那須ははねかえすように、
「ご承知のように、アナシェビーキの一派は、大抵みな持ってるからね。それで、あいつだって持ってるだろうと思うのさ」
 西貝は、えっ、あいつが……と、いいながらはね起きた。古田は判ったような顔をして、首をふりながら、
「アナヒ……、ふむ、なるほど。……道理で胡散臭《うさんくさ》いと思ったよ」
 と、いった。すると、那須は皮肉な調子で、
「ふん、胡散臭いやつはどこにもいるさ」
 と、いいながら、なに気ない風で、ジロリと西貝を見た。なぜか西貝は急に暗い顔をして、庭のほうを向いてしまった。
 廊下に足音がして、女中のあとから久我がはいってきた。いつものように、すこしとりすましたようなようすで、慇懃に挨拶をした。
「どうも、たいへんお待たせしまして……」
 凄いほどひき緊った端麗な顔を、じっとりと汗でしめらせ、婉然と眼をほ
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