は別です。いまでは、あなたがあたしの倫理なのです。あなたがいまの百倍も悪人だっても、あたしの愛情は濃くこそなれ、けっして薄らぎはしないのです。たとえなんであっても、あたしはもうあなたの血族なのだから、あなたから離れることは出来ないのです。……ただ、たったひとつ情けなく思うのは、あたしたちが過去を偽って結びついていることです。告白し合う機会を、二人ながら、永久に失ってしまいました。互いの胸に秘密を抱きながら、これからいく年も幾年も生活してゆかなければならない。悲しいことだが、しかし耐えてゆくより仕様がないのでしょう。……たぶん、これが二人の宿命なのです……〉
 しかし、そうだとすれば、めそめそしてはいられない。とにかく久我を逃さなくては。……乾にきかれてしまったから、上高地はもう駄目。……むかしあたしがいた五島列島の福江島……、あそこがいい。
 葵は電話室を出て、つかつかと乾のそばまで行くと、藪から棒にいった。
「あたしに、すこしお金を貸してくださらない? すこしばかりでいいんですけど……」
 えっ、といって、急に用心深い顔つきをすると、口を尖らして、いった。
「金? あたしに金なんざありませんや、せっかくだけど……」
 とりつく島もないようすだった。
「ぽっちりでいいんですの。……どうぞ、……五十円ほどあればいいんですから……」
 知らず知らず胸の上で掌を合していた。気がついて顔を赧らめた。
 乾は急に横柄なようすになって、
「……たち入ったことをきくようだが、それで……その金でどうしようてんです。いまきいてると上高地へ行くという話だが、その旅費にでもするつもりなのかね」
 もう羞かしいもなにもなかった。
「……いいえ、そればかりではないの。おはずかしい話ですけど、もう売るものもなにもない有様なんです。……あたし、着のみ着のままなのよ。これをぬいでしまったら、それでおしまいなの。……みなあたしが悪いんですわ。久我が馬鹿な使いかたをするのを、いい気になって手伝っていたようなもんだから……」
 乾は勿体らしく首をふって、
「へえ、それほどまでとは知らなかった。……野放図な亭主に連れ添うばっかりに、あんたも苦労するねえ。(と、いって額を睨むようにしてなにか考えていたが、やがて、突然に)よろしい、用達てましょう。……だが、断っておくが、これは久我さんに貸すんじゃないよ。あんたに貸すのだ。あんまりあんたが気の毒だから……。そのかわり、といっちゃなんだが、じつは、あたしのほうにもすこし頼みがあるんだ。……というのは、近々久我さんのところへ、山瀬順太郎という、軍人のような体格をした男がたずねてくる。……六尺ちかい大男で、陽に焼けたまっ黒な顔をしている。一眼見てそれとわかる男なんだが、あたしあその男に、去年の秋二百円ほど金を貸してある。……そいつは最近おやじの遺産を相続して、このごろはだいぶ羽ぶりをきかして遊んでるという噂なんです。本来なら、角樽《つのだる》の一挺もさげて、まっさきにお礼にやってこなくちゃならねえところなんだが、逃げ廻るてえその了見が太いから、ひとつとっつかまえて油をしぼってやろうと思うんです。……そういうわけだから、もしそいつが久我さんを訪ねてきたら、そっとあたしんとこへ知らせにきてくださいな。……ねえ、葵嬢、すこしあざといようだが、それを教えてくれたら、お金を渡すということにしようじゃないか。……どうです」
 山瀬順太郎……、きいたことのある名前だ。が、どこで逢ったのか、葵にはどうしても思いだせなかった。それに、うしろめたい気もする。すぐには返事が出来なかった。しかしこの場合、それを断りきる勇気は葵にはなかった。
 乾は満足そうに手をすり合して、
「いや、そうあるべきが当然なのさ。この世は持ちつもたれつだからね。……だが、このことは久我さんにはそっとしておいてくださいよ。なにしろ、あのひとは頑固だからね。横合いからじゃじゃ張られると困るんだ。……それに、こう言っちゃなんだが、久我さんてえのはなるほどいい男だが、なんにしても得態が知れないからねえ。(そう言いながら、すこしずつ葵のほうへすり寄って行って、肩に手をかけると)ねえ、葵嬢、那須ってあの新聞記者がね、職員録を繰って見たが、京大阪はおろか、北海道庁の警察部にも、久我千秋なんて特高刑事はいないそうですぜ。官名詐称を承知でやってるてえのには、そこになにか相当のわけがあるのさ。……葵嬢、逆上をしずめて、すこし考えなくちゃいけないねえ。うっかりしてると泣いても追っつかなことになりますぜ。……なにものか判らないやつにしがみついてるなんてテはないよ。(葵の手を握りながら)そりゃ、もちろん、いざってときには、及ばずながらあたしが加勢する。正直にぶちまけると、あたしああんたが好きだ。あ
前へ 次へ
全47ページ中31ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング