しまいし。……おれが云わなくたって時がくればわかる。……いわゆる、……天網恢々、さ」
乾はなにかしばらく考えこんでいたが、やがて、勢いこんで、
「しかし、こんな風にも考えられるねえ。……あの晩、葵の部屋にもひとり女がいて、出て行ったのは葵でなくて、そいつ……」
西貝がふきだした。
「おい、乾老……評判どおり君は葵に惚れてるんだな。……なるほど、君のブラック・リストから葵の名が消えてるわけだ。……するてえと、あとに残ったのはだれだれだね? (妙に探ぐるような眼つきをして)久我、……古田……」
乾がぽつりと口をはさんだ。
「それから、あなた」
西貝の膝がピクリと動いた。急に顔色を変えると怒鳴るようにいった。
「おれ? 冗談いうな」
乾はおちつきはらって、
「いや、大いに理由があるんですよ。(西貝の眼を見つめながら)西貝さん、あの晩の午前二時頃あんたどこにいました?」
……返事がなかった。
「午前二時ごろ〈那覇〉の、……いやさ越中島であんたを見かけたってやつがあるんだがねえ。……いったい、あの辺にどんな用があったんです」
6
葵はホテルの窓ぎわに坐って、落着かない心で空を眺めていた。
神戸へついて六日以来、この空は灰色の雲にとざされ、夕方になるときまって小雨を落した。その雨のなかでときどきゆるく汽笛が鳴る。それが葵のこころを茫漠とした悲しみのなかへひきいれるのだった。
すこしひろすぎる部屋のなかは、森閑として昼でもうす暗く、大きなダブルベッドもソファも卓も、花瓶の花も……、なにもかもみな乾き、しらじらとしらけわたっていた。
この二三日、葵はなにか得体の知れない感じにつき纒われ、わけもなく焦だったり憂鬱になったりしていた。時には涙までながれだすのだった。それがなんであるか、葵自身もはっきりと言い解くことが出来なかったが、強いていえば、不吉な予感というようなものだった。
葵は幸福だった。彼女は思いがけなく愛するひとを獲、しかもこれがその新婚旅行なのだった。久我はいつも優しく、彼女を喜ばすために、なにものも惜しまぬ風だった。
久我は葵のために露台と浴室のついた広い部屋をえらび、毎朝夥しい花を届けさせ、どこもかしこも花で埋めるのだった。毎朝葵は花のなかで眼をさます、この楽しさはたとえようがなかった。
二人は外出もせずに一日中部屋のなかで暮し
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