とけばいいじゃないか。なにも俺に念をおすことはなかろう。……(大きな声で)執拗すぎるよ、君は」
「ま、そう腹をたてずにおしえてくださいよ。(脅かすような眼つきをして)さもないと……」
 キッとして、
「さもないと、なんだ」
「へ、へ、あたしは手も足も出ないんです。……それはそうとねえ、西貝さん。久我が刑事だという噂もあるんだが、あんた知ってますか」
「警視庁の高等課で会ったことがあるって、だれか言ってたが……」
「やっぱり知ってたのか。……ひとが悪いねえ、あんたも。……しかし、それは本当ですか」
「大阪府警察部の思想係だというんだが、本当かどうか俺は知らん」
 乾はわざとらしく首をひねりながら、
「……すると、台湾へは絲満の身元調査に行ったのかな。……それとも犯人でも追いこんで……」
「ばかな。思想係だといってるじゃないか。……そうだとすれば、ちょっと思いあたることがある。……あいつ、あの朝〈那覇〉で、なにげなく四日前に東京へきたと口をすべらしたろう。……大阪で銀行襲撃があったのは、絲満事件のちょうど五日前だ。……事件が起きるとすぐ足どりをたどって東京へやってきたんだよ。……こんども台湾なんぞじゃない、関西へ飛んで行ったんだ。……ひとりは今朝捕まったが、共犯の中村はまだ関西周辺を逃げまわっているというから……」
「……なるほど、そう聞けば尤もらしいところもあるが、しかし……ワイフをつれて捕物にむかうなんてえのは前代未聞だね」
「このごろは警察も開化《ひらけ》てらあね。そんなこともあると思えばいいじゃないか。……だがな、乾老……久我はともかく、あの葵ってやつこそ曲者なんだぜ。……那須にだけは話したが、あいつは絲満が殺られた晩の午前一時ごろ、非常梯子をつたって、そっと戸外へ抜けだしてるんだ。……ちょうど葵の下の部屋におれの大学時代の友達がいる。そいつが見つけて、妙なこともあるもんだと、おれに話してくれたんだ。……ふふん、刑事の嬶が人殺しじゃ、こりゃ、すこし行きすぎてると思ってねえ……」
 乾は、へえ、と顎をひいて、
「そりゃ、……ほ、ほんとうに葵だったのかね?」
「ほんとう、たあなんだ。……葵がひとりしかいない部屋から女が出てくれあ、それあ葵にきまってるだろうじゃないか」
「あんたそれを警察でもいったのかね」
「だれがそんなお節介をするもんか。おれの知ったこっちゃありゃ
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