ていねいにおじぎをした。
「どうか、ひらにごかんべん願います」
 古田はパチリと鞘音をさせて匕首をしまうと、乾をこづきまわしながら、
「やい! おかげでおれあクビになったんだ。……妹は離縁《しくじ》るしさ、おっ母アは揮発をのむ……まるで、地獄だ。……それもこれも、みなてめえのした業だぞ。……やい、あやまれ! 土下座してすみませんでしたと言え!」
 乾は前をはだけたまま、みじめな恰好で床の上に坐ると、ペコペコと頭をさげた。
「なんともどうも、お詫のしようも……」
 ようやく顔をあげたとおもうと、顎の下へ猛烈な勢いで古田の靴の先が飛んできた。乾は、ぎゃっ、といって、あおのけにひっくりかえった。這いずりながら扉のほうへ逃げようとすると、また脇腹へ眼の眩むようなやつがきた。思わず、うむ、と呻き声をあげた。古田は乾を床へねじ倒す、こんどは胸の上へ馬乗りになって、力まかせに、止めどもなく撲りつづけるのだった……

 戸口に西貝の姿があらわれた。
 呆っ気にとられて、突っ立ったまま、ぼんやりとこの光景を眺めていた。
 最後にひとつ、猛烈なやつを横っ面へくれておいて立ちあがると、古田は西貝を手荒くおしのけ肩をふりながら出ていった。
 長く伸びている乾のそばへよると、西貝はその顔のうえへしゃがみながら、
「おい、どうした」
 と、ふざけた調子でいった。
 上唇から顎へかけて、夥しい鼻血が流れ、暗がりで見ると、急に髯がはえたようにみえるのだった。むくんだように顔は腫れあがり、熱をもってテラテラと光っていた。
 西貝の声をききつけると、乾は腫れあがった瞼をおしつけながら、
「やられましたよ。(と、案外に元気な声でいいながら、そばにころがっている金盥を指さし)すまないが、階下へ行ってそれに水を汲んできてくださいな。……それから、台所に手拭いがあるから……」

 西貝が水を汲んで二階へあがってみると、乾は寝台に腰をかけ、新聞紙をひき裂いては、しきりに鼻孔につめ[#「つめ」に傍点]をかっていた。
「おい、乾老。……いったい、どうしたってんだ」
 乾は手拭いをしぼって鼻梁にあてながら、
「……あたしが密告したのをききこんでやってきたんです。……どうも、ひどい目にあわせやがった」
 すると、西貝はせせら笑って、
「……ふん、そうか。それなら、ま、仕様がなかろう。……いずれ一度はやられるんだ。因果応
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