なんといって」
「シャンハイニユクモヨウ。コウベ、トア・ホテル」
乾は膝の上へ頬杖をついて、しばらく黙っていたのち、藪から棒にたずねた。
「いま、何時だ」
腕時計に眼を走らせて、鶴がこたえる。
「七時十分」
乾が急にたちあがる。鶴の手首を握りしめながら、
「いいか、これからすぐ神戸へ発つのだ。七時三十分の汽車。あと二十分。金は?」
「五十円ばかし」
「よかろう。……(じっと、鶴の眼を見つめながら)……それから?」
ハンド・バッグを顎でさしながら、
「あの中にはいっている」
「よし!」
そういうと、机へはしり寄って、ペンの先を軋ませながら、せかせかと手紙のようなものを書きだした。間もなく、二つの封筒を持って鶴のほうへもどってくると、それを渡しながら、
「この茶色のほうを神戸まで持って行くのだ。渡したらすぐ帰ってこい。こっちの白いほうは、行きがけに西貝のアパートへおいて行け。手紙受へ投げこんでおけばいい」
無言のままで立ちあがると、鶴は手早くゴム引のマントを着、頭巾をま深く顔のうえにひきおろした。こうすると、まるで小学生のように見えるのだった。
乾は先にたって戸口までゆくと、また念いりに通りをながめ、それから鶴の肩へ両手をかけて前へ押しだすようにした。
「行ってこい」
ふりかえりもせずに、鶴は雨のなかへ出て行った。
路地の角をまがって見えなくなると、乾は扉をしめて奥の階段の下までゆき、そこで立ちどまったまま、なにかしばらく考えているようすだったが、やがて踊るような足どりで二階へあがって行った。
二十畳ほどの広さの部屋で、その奥のほうにこれもどこかの払下品なのだろう、天蓋のついた物々しい寝台がどっしりとすわっていた。窓のそばに桃花心木《マホガニ》の書机がひとつ、椅子がひとつ、床の上には古新聞や尿瓶《しびん》や缶詰の空缶や金盥……その他、雑多なものが、足の踏みばもないほど、でまかせに投げちらされている。
それを飛びこえたり、足の先で押しのけたりしながら、机のそばまでゆくと、乾は思いだしたように懐から夕刊をとりだして、拾い読みをはじめた。
絲満事件の五日ほど前に起った銀行ギャングの犯人の一人が、けさ名古屋で捕ったというので、全市の夕刊の三面はこの事件の報道で痙攣を起していた。犯人の自供によって、事件の全貌が明らかになろうとしている。警視庁高等課の予想通
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