の肩も裾もぐっしょりと濡らして、まるで川へはまった犬っころのようなみじめな風態だった。
 ぬれた内懐から気味わるそうに鍵をひきだして、鍵孔にさしこもうとすると、思いがけなく、すうっ、と扉が内側へあいた……
 急に眼つきを鋭くして首をかしげる。しめ忘れたはずはない。……だれか内部にいるのだ。扉のすき間に耳をあてて息をころす。それから、二三歩身をひくと、きっと二階の窓を見あげた。
 西洋美術骨董、と読ませるつもりなのだろう〈FOREIGN ARTOBJECTS〉と書いた看板のうしろで、窓の鎧扉がひっそりと雫をたらしていた。飾窓も硝子扉もない妙に閉めこんだ構えの、苔のはえたような建物だった。
 扉をあけてそっと店のなかへはいり、身体をまげて板土間の奥のほうをすかして見る。
 足のとれた写字机、石版画、セーブル焼の置時計、手風琴、金|鍍金《メッキ》の枝燭台、古甕……鎧扉の隙まからさしこむ光線のほそい縞の中で、埃をかぶった古物が雑然とその片鱗を浮きあがらせている。その奥のうす闇のなかで、ちらと人影らしいものが動いた。
 入口の扉に鍵をかけると乾はずかずかと、そのほうへ進んでいった。
「誰だ、そこにいるのは!」
 闇のなかの人物は身動きしたのであろう。かすかに靴底の軋む音がした。どうやら長椅子のうしろにいるらしい。
「出てこい、こっちへ!」
 古物のなかから三稜剣をぬきだして右手に握ると、スイッチをひねる。長椅子にむかって身構えをしながら、乾が鋭い声で叫んだ。
「出てこないと、これで突っ殺すぞ!」
 十八九の、小柄な娘がひょっくりと顔をだした。眼だまをくるくるさせながら、おどけた調子でいった。
「|泥棒だゾ《ヌストドーイ》」眼の窪んだ、つんと鼻の高い、すこし比島人《フィリッピンじん》じみているが、愛くるしい健康そうな娘だった。伸びすぎた断髪をゆさゆさとゆすぶり、小粋な蘇格蘭土縞《エコッセエ》のワンピースを着ていた。力の抜けたような声で、乾がいった。
「……|お前《イヤー》、……鶴《チル》……」娘は背凭せを跨いでどすんと椅子のなかへ落ちこむと、おかしな節をつけて唄った。
「……天から落たる絲満小人《イチウマングワー》、幾人《イクタイ》揃うて落たがや!」
 そして、嗄れた声で、は、は、と笑った。
 突っ立ったまま、乾はひどく険しい顔で、
「鶴《チル》! どんな風にしてはいってきた」
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