、これからすぐ乗込んでいって埓をあけてやろう……。あわてふためいて、枝川町までタキシを飛ばした。……むこうへ着いたときは、ちょうど一時十分だった。二階の雨戸があいて、ぼんやり電気の光がもれていた。……小生は勢いこんで戸口までいったが……、(悚えるような眼つきをして)戸口まで行ったが、どうしても把手に手をかける気がしない……、どういうわけか、凄くて、怖くて、どうしてもはいる気がしない。……そのうちに、意地にも我慢にもやりきれなくなって、平久町まで駆け戻って、あそこから洲崎《ベニス》の灯を見ると、ようやく人心地がついた。……今にして思えば、多分あのころは、内部じゃ殺しの真最中だったんだろう。……ありていに申しあげると、こういうわけなんだ。嘘も……偽りもない。……どうか妄執を晴らして……小生だけは、助けてくれ……」
本気か冗談か、手を合せた。乾はニヤリと笑って、
「知ってるよ。……ひとが悪いようだが、大体は知ってたんです。……でもねえ、あんたの口からきいて見ないことにゃ……」
と、いいながら、堀のほうへ眼を移した。途端、なにを見たのか、うむ、と息をひいた。
ひきあげた四手網の目から、ポタポタと滴がたれる。網のなかに、丸く束ねたぼろ布のようなものがはいっていた。
「オーイ、旦那ア、なんか出たぜえ」
腐ったようなシャツを着た白髪頭のルンペンが、それを両手にかかえて岸のほうへ駆けてきた。
念いりにくくった針金をといて、地面のうえにひろげる。地色はもうわからないが、支那縮緬《クレープ・ド・シン》の女の服だった。そのなかに富士絹の白い下着。棒きれの先でひろげて見ると、地図をかいたように血の汚点がべっとりとついていた。
乾はつくづくと検分すると、妙にとりすまして、いった。
「おい、おやじ、これをもとのようにくくって、いまのところへ沈めてくれ」
「えっ、また沈めるんですか」
「黙っていったとおりにすればいいんだ。……さがしてるのはこんなもんじゃない。……かかり合いになるからよ」
「へえ、ご尤も……」
もとのように石をつめてくくられると、着物はまた溜堀の水の中へ沈んでいった。急に暮れかけてきて、うす闇のなかで、西貝の煙草の火が赤く光りはじめた。
9
秋風がふく。
狭すぎる新宿の通りを、めっきり黝《くろず》んできた人のながれが淀みながら動いていた。ひとすじは
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