たに貸すのだ。あんまりあんたが気の毒だから……。そのかわり、といっちゃなんだが、じつは、あたしのほうにもすこし頼みがあるんだ。……というのは、近々久我さんのところへ、山瀬順太郎という、軍人のような体格をした男がたずねてくる。……六尺ちかい大男で、陽に焼けたまっ黒な顔をしている。一眼見てそれとわかる男なんだが、あたしあその男に、去年の秋二百円ほど金を貸してある。……そいつは最近おやじの遺産を相続して、このごろはだいぶ羽ぶりをきかして遊んでるという噂なんです。本来なら、角樽《つのだる》の一挺もさげて、まっさきにお礼にやってこなくちゃならねえところなんだが、逃げ廻るてえその了見が太いから、ひとつとっつかまえて油をしぼってやろうと思うんです。……そういうわけだから、もしそいつが久我さんを訪ねてきたら、そっとあたしんとこへ知らせにきてくださいな。……ねえ、葵嬢、すこしあざといようだが、それを教えてくれたら、お金を渡すということにしようじゃないか。……どうです」
 山瀬順太郎……、きいたことのある名前だ。が、どこで逢ったのか、葵にはどうしても思いだせなかった。それに、うしろめたい気もする。すぐには返事が出来なかった。しかしこの場合、それを断りきる勇気は葵にはなかった。
 乾は満足そうに手をすり合して、
「いや、そうあるべきが当然なのさ。この世は持ちつもたれつだからね。……だが、このことは久我さんにはそっとしておいてくださいよ。なにしろ、あのひとは頑固だからね。横合いからじゃじゃ張られると困るんだ。……それに、こう言っちゃなんだが、久我さんてえのはなるほどいい男だが、なんにしても得態が知れないからねえ。(そう言いながら、すこしずつ葵のほうへすり寄って行って、肩に手をかけると)ねえ、葵嬢、那須ってあの新聞記者がね、職員録を繰って見たが、京大阪はおろか、北海道庁の警察部にも、久我千秋なんて特高刑事はいないそうですぜ。官名詐称を承知でやってるてえのには、そこになにか相当のわけがあるのさ。……葵嬢、逆上をしずめて、すこし考えなくちゃいけないねえ。うっかりしてると泣いても追っつかなことになりますぜ。……なにものか判らないやつにしがみついてるなんてテはないよ。(葵の手を握りながら)そりゃ、もちろん、いざってときには、及ばずながらあたしが加勢する。正直にぶちまけると、あたしああんたが好きだ。あ
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