のなら長く苦しませたくないと思ったのか、急にキッパリとした顔つきになり、腰の木鞘から魚剖刀《マキリ》を抜きだすと、鋭い切尖を膃肭獣の頸のあたりに突き刺した。直視するに耐えず、眼をそらそうとしたとき、狭山はマキリを投げ捨て、創口に両手をかけ、貴婦人の手から手袋をぬがせるようにクルリと皮をひき剥いた。
 一転瞬の変化だった。ちょうど幻影が消えうせるように膃肭獣の姿が消え、たったいま膃肭獣がいたその場所に、白い若い女の肉体が横たわっていた。すんなりと両手をのばし、うっすらと眼をとじている。その面ざしの美しさは思いうかべられる限りのいかなる形象よりもたちまさっていた。膚はいま降った淡雪のように白くほのかに、生れたばかりのように弱々しかった。美しい肢体はたえず陽炎のように揺れ、手を触れたらそのまま消えてしまいそうだった。狭山は床に跪まずいて合掌し、恍惚たる眼差でまたたきもせずに凝視していた。
 霧の間から朝日の光が洩れ、八日目の朝が来た。狭山は蚕棚の端に腰をかけ、首をたれて悲嘆に沈んでいたが、静かに立ってきて向きあう床几に掛けると、こんな話をした。

    Agrapha(陳述されざりし部分)
前へ 次へ
全51ページ中43ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング