あけると、狭山の寝台のそばまで飛んで行った。
 膃肭獣は嫋やかな背を見せて丸くなって眠っている。私は首筋を掴んで寝台の下からひきだした。膃肭獣はキョトンと私の顔を眺めていたが、身ぶるいをひとつすると、髯の生えた唇を釣りあげ、牙をむき出して私を寄せつけまいとしたが、委細かまわず背筋をこきおろし、あおのけにひっ繰りかえして腹部をあらためて見たが、どこにも縫合のあとはなく、生温い体温とじっとりとした膏じめりが掌につたわったばかりであった。まぎれもなく、現実の膃肭獣であった。美しいセピア色の密毛の下に感じられるのは、モッタリとした脂肪層と膃肭獣特有の骨格で、鰭を動かすたびにかすかに関節が音をたてた。膃肭獣は鰭をバタバタさせ、私の手から逃れようと藻掻いていたが、口腔の奥まで見えるほど大きな口をあけて威嚇したのち、つと顔をのばして私の手を強く噛んだ。口の中に牡丹の花弁のような赤い舌が見えた。
 土間に駆け戻ると、昂奮も焦慮も一挙に醒めはて、途方に暮れたような気持で木箱の上に坐りこんでいた。もとはといえば、土間の花簪と柱暦に巻き込まれていた女の髪の毛から始まったことだった。が、考えて見ればその花簪は
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