蔭にアーエートの墓が蕭条たるようすで半ば氷に埋もれていた。墓銘は露西亜語でこんなふうに書かれてあった。
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(動物学者ニコライ・アーエートの墓。学術調査中、この島にて死す。一九一六年三月×日)
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 ニコライ・アーエートの死の因由は今日もなお不明である。アーエートは西側の海岸の岩隙《チムニイ》の壁に凭れ、眼をあいたまま死んでいた。左手にパイプを持ち、右手は外套のポケットにさしこまれたままであった。なにか神秘な力が突然に襲いかかり、島の研究を中絶させたと思うほかはないような死にかただった。
 思いついて私はそのほうへ歩きだした。煙突を縦に切ったような割目が岩壁に深く喰いこみ、その奥はやや広い洞になっているので、小さな小屋ぐらいなら、外部から見あらわされることなく隠しおわせられるはずだと思ったからである。
 岩角に手をかけて降りて行って見ると、夏になれば、ししうばや、岩菊や、薄赤い雪罌粟などのわずかばかりの亜寒帯植物が、つつましい花を咲かせる優しげな岩隙も、いまはいちめんに氷と雪にとざされ、長い氷柱がいくつも鐘乳石のように垂れさがって洞の入口をふさ
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