た。
部屋の中央に据えられた鋳鉄製の大煖炉の傍まで戻って、そこの床几に腰をかけたが、煖炉はすっかり冷え切っていて、寒さと佗しさを感じさせるのに役立つばかりである。すぐそばに薪が置いてあるが、忌々しくて火を燃しつける気にもならない。歯の根を顫わせながら狭山良吉が帰って来るのを待っていたが、いつまでたっても姿を見せない。
一、私は寒気と疲労と空腹のために不機嫌になり、腕を組んでむずかしい顔をしていると、それから小一時間ほどたってから、裏口の方に跛をひくような重い足音がきこえ、ゆっくりと扉を開けて誰か入ってきた。薄暗がりをすかして眺めると、奥の入口一杯にはだかって大きな男が立っている。私は焦れ切っていたところだったのでいきなり、
「貴様、狭山か」と声をかけたが、こちらを見ながら、うっそりとしているばかりで返事もしない。
「そんなところで、のっそりしていないで、こっちへ来い」と怒鳴りつけると、狭山は小山がゆらぐように近づいてきて、食卓をへだてた向う側に突立った。
眼の前にふしぎな顔があった。前額というものがまったく欠失して、一本も毛のない扁平な顱《ろ》頂につづき、薄い眉毛の下に犬のような濡れた大きな眼があった。丸い小さな、干貝のような耳がぴったりと顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》にはりつき、たるんだような薄い唇がその下までまくれあがっている。顎には恐ろしい贅肉がついていて、三つぐらいにくびれて、いきなり厚い胸になっている。手足が鰭でないばかりで、膃肭獣そっくりというようすをしている。こうして向きあっているのは、たったいま海から上って来た膃肭獣なのではなかろうかという無意味な妄想につかれ、薄暗がりの中でこういう異相と向きあっているのが厭わしくなり、狭山にランプを持って来いと命じた。
狭山は足をひきずりながら炊事場の方へ行くと、七分芯のランプに灯をつけてきて※[#「木+垂」、第3水準1−85−77]木の釘にひっかけ、見ていても気が焦ら立つようなのろくさいしぐさで煖炉を燃やしつけ、のっそりと私と向きあう床几に掛けた。
ランプの光の中に浮きあがった狭山の顔は、悲惨きわまるものだった。狭山は壊血病にかかり、齦《はぐき》は紫色に腫れ、皮膚は出血斑で蔽われている。髪の毛はすっかり脱け落ちて、わずかに残った眉毛の毛根が血膿をためていた。これから推すと、膝関節にも腫脹がはじまっているのだろう。のろのろと動きまわるのがその証拠だった。
私は狭山が横着をしているのだと思い、人もなげな緩怠な態度に腹を立てていたが、誤解だったことがわかったので機嫌をなおし、
「貴様、いままでどこにいたのか」とたずねてみた。
狭山は沈鬱なようすでゆっくりと顔をあげると、唇の端をひきさげて眉の間を緊張させ、頬をピクピク痙攣《ひきつ》らせながら、私の顔を正視したまま、頑固におし黙っている。抑鬱病患者によく見る、癲癇性不機嫌といわれるあの顔である。私はつとめて口調をやわらげて、いろいろと問いを発してみたが、なにをたずねても返事をしない。
氷と霧にとじられた荒凉寂漠たる島に、長い間たった一人で暮らしていたため、この男は物をいうすべを忘れてしまったのかもしれない。極地で孤独な生活をしていると、次第に構言能力を失うようになるということが、ウイレム・バレンツの報告書に見えている。この島の恐ろしい寂寥のため、抑鬱病か、あるいはそれに近い精神障礙をひき起したのだと思った。
私はすっかりもてあまし、撫然と狭山の顔を眺めていると、とつぜん狭山は口をあき、海洞に潮がさしこんでくるような妙に響のある声で、いつまでこの島にいるつもりかという意味のことをたずねた。私は、明後日、船が自分を迎えにくるまでこの島にいるとこたえ、愛想のつもりで、
「それだって、どうなるかわかったもんじゃない。船が途中で難船でもしたら、雪解けのころまでここにいるよりしようがないのだからな」というと狭山は瞬かぬ眼でじっとこちらを凝視していた。私のような地位のものが、伴もつれずに一人でこんな島へ残ったということが、なんとしても腑に落ちぬ体《てい》だった。
一、島の椿事はこんな風にして起った。
年越しの晩以来、島の一同は乾燥室に入りびたっていた。その日も夕方から酒盛りになり、間もなく酔いつぶれてしまったが、大晦日の晩にはじまって、三ヵ日の間、飲みつづけだったので、みな正体を失い、過熱された乾燥室のボイラーが、徐々に爆発点に達しようとしていることに気のつくものもなかった。
噴火のようなありさまで、一瞬にして、人間も乾燥室もふっ飛んでしまった。人間どもは火山弾のように空中に投げあげられ、間もなく燃えさかる炎の中に落ちてきた。熱湯で茹られたうえ、念入りにもう一度焼かれたのである。恐らく眼をさます暇な
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